百人一首についての思い その75

 第七十四番歌
「憂かりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを」 
 源俊頼朝臣
 あの日の心が私になびきますようにと、観音様に祈ったはずです。初瀬の山おろしのように、私に冷たくなれと祈りはしませんでした。
 
 I pleaded with the Goddess of Mercy
 for help with she who was cold to me,
 but, like the wild wind of Hatsuse,
 she became fiercer still.
 It is not what I prayed for.

 千載集の詞書きにはこうある。「権中納言俊忠家に恋の歌十首詠み侍りける時、祈れども逢わざる恋といへる心をよめる」。つまり、藤原俊忠の私邸で源俊頼が「祈っても逢えない恋」をテ―マにして詠んだ歌である。
 
 藤原俊忠は俊成の父親であるから、定家にとっては祖父に当たる。定家は、『近代秀歌』の中で、「これは心ふかく詞心に任せて学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と大絶賛している。定家が何故にこの歌を大絶賛したのかを解く鍵は「初瀬」にあると、小名木さんは言う。
 
「初瀬」は現在の奈良県桜井市に現存する地名で、今では「はせ」と詠む。大昔は、「泊瀬」と書いた。第二十一代雄略天皇は「泊瀬(はつせ)朝倉宮」をここに置いた。雄略天皇は地方豪族の連合政権のようなものから、天皇を頂点とする王朝に変えた。では、雄略天皇に関連づけることで、源俊頼は何を言いたかったのだろうか。
 
 俊頼が生きていた十一世紀は、武士たちが台頭してきた。武士は新田開墾農民の豪族たちだった。田んぼの利水権などで対立と闘争を繰り返していたのだ。いくら武士であっても、闘争や武力衝突は苦悶である。歴代天皇の中でも「武」を持った雄略天皇でさえも、「激しかれとは祈らぬものを」と嘆いたのだ。それが小名木さんの解釈だ。私もそのように思う。このことこそが、「これは心ふかく詞心に任せて学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と定家が評した背景である。
 
 

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