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風穴を開ける、その1

くるりの「ハイウェイ」の歌い出しみたいな気分によくなる。
答えはなくて、今でもそこそこの頻度でその気持ちになる。

このことについて考えるとき、僕の中に、二種類の生きづらさが浮かび上がってくる。

一、何かがうまくいかなくてしんどい。
ニ、目の前のことはそこそこうまくいっているが、ときどき息が詰まりそうになる。

前者はそのうまくいかないことをどうにかするだけなので(しんどいけど)、ある意味単純。
厄介なのがニ、で、これはもう癖というか体質というか、そういう人間は延々と悩んでしまうものなのかもしれない。
地元にいたときから、僕はその感覚と長いこと付き合っている。今もそう。

なぜそうなるのか、
何がそうさせるのか、

色んな方向に突き詰めた結果、今になって、
「生活の中で目の前のこと=《今ここ》の占める割合が多くなり過ぎて、溺れそうになる」
からじゃないかなと思った。

たとえその《今ここ》がどんなに良い状況でも、どんなに満たされていても、「これが全てなんだ」と感じた瞬間に、心の出口に蓋をされたような、もうどこにも行けないような、急に息が詰まるような感覚になってしまう。

ふらっといなくなったり、連絡が取れなくなった人たちも、こういう気持ちだったのかもしれない。元気にしてるといいな。

◆◆

この数日で、たまたま別の二人から「風穴を開ける」という言葉を聞いた。
心が何かで覆われて窒息しそうな状況のとき、どんなに小さくても空気を取り入れる穴があれば、なんとかなる気がする。
すごくしっくりくる表現だ。

《今ここ》に風穴を開けてくれるのは、僕にとっては、自分をどこかへ連れて行ってくれる映画、本、音楽だったり、自分の価値観をぶっ壊してくれる友達とか、全ての役割から解放してくれる場所だったりした。

社会のルールや圧力に馴染めない人や、彼らが集う場所、そういう人が作るものがたまらなく好きだ。輪郭の溶けた轟音で全部掻き消してくれるマイブラやスマパンは擦り切れるほど聴いたし、社会的じゃない会話を人とすることをいつも求めているし、役割から解放されたくて今は少なくなった屋上を探し求めて歩き続けたりした。

最近は、一日の半分くらいは社会的な会話をし、最短ルートで帰って、(自分にしては)なるべく健康に気を遣って、達成したいことのためにやるべきことをやっている。

でも先週、なぜだか分からないけど家から出れなくなって、一日中布団に潜っていた。そのまま三日くらい同じ状態が続いた。こういうとき、コンビニの店員と話すのも辛くて、いつも家の下の100円自販機にあるペプシ500ml缶を買って飲んで、廊下に倒れている。

なんでかなぁ、と思って考えていた。それからふいに、風穴を開けるものたちが足りてないのかも、と思って、そのあとの一週間、いろんなものを浴びて、これでもかというくらいぼこぼこに穴を開けてもらった。

そしたら少し風も吹き、なんとか息ができた。でもまたすぐに塞がって、なんだかなぁ、みたいな気持ちで、悶々としながら、洗濯回したけど干す気力もなく、廊下で、仕事帰りに買った発泡酒を飲んで、全然だめじゃん!と心の中で叫んでいる。
もっと大丈夫になりたいな。
明日は違う風が吹くことを祈ってる。



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