見出し画像

コラム 武将としての評価と忠勝隊の意義について

徳川家重臣として歩み、江戸幕府草創にも大きく貢献した忠勝は生前から武人として高く評価されていました。前回お伝えしました細川忠興書状では、わざわざ息子・忠利に忠勝を評価した狂歌の載っているページがあるかを問い合わせています。このことから、忠興が忠勝を慕っていたことが窺えるます。
また、家康の次男・結城秀康が養生中であった息子・忠政に宛てた書状において、以下のように記しています。
 
御父子や我等やうなる者をはせけんよりそねミ申ものニて候間…

つまり、忠勝父子や私のような武人は平和な時代において世間から嫌われるものだというのです。秀康が忠勝を武人として一目置いていることがわかります。
また、朝日姫輿入れ騒動において秀吉から朝日姫の護衛を務める使者に選ばれているのは、徳川家での地位ばかりでなく、その武勇を見込んでのことであるのは間違いなく、儒学者・林羅山をしても「其勇名則人皆所知也」と評されています(「忠信冑記」)。
このように、同時代人物から軒並み武人として評価されている忠勝ですが、肝心の主君・家康からの直接的な評価は残されていません。しかし、朝日姫輿入れ騒動において使者に任命されていることは、家康からも関白・秀吉の妹の護衛という重大な任務を任せるに足る武将と見られていたことを示してうますし、関ヶ原合戦で豊臣諸将への軍目付とされたのも家康に代わって軍隊を統括しうる指揮官としての能力を高く評価していたからであしょう。桑名入城もまた然り。家康が忠勝を高く評価し、積極的に重用していたことはもはや疑う余地などありません。
また、本多忠勝で連想されるのは、いわゆる鹿角の兜を身に付け、名槍・蜻蛉切を持ち、愛馬として知られる三国黒にまたがっている姿でしょう。また、鍾馗の旗印も伝わっており、「姉川合戦図屏風」にも描かれています。三国黒を除く3点は現在も遺品として残されています。
このような出で立ちは多くの敵を震え上がらせたことでしょう。そこから少し踏み入って考えると、忠勝(及び忠勝隊)には敵兵を威圧させ、軍事行動を抑止する(領内から退散させる)ことが求められたのではないでしょうか。前記装備がいつごろからセットで使用され始めたかにもよりますが、遅くとも小牧・長久手合戦あたりから威圧部隊の意味を持ち始めたとみてよいでしょう。
小牧・長久手合戦時の5月1日には秀吉本隊を追撃していますが、家康の指示で深追いまではしていません(「細川家記」)。また、その翌々日には秀吉のいる尾張中島郡に出陣しており、これは明らかに秀吉軍に対する軍事行動抑止の意味があったと考えられます。小田原北条家討伐時に単独で上総方面に進んだのもその意味合いが強いと考えられます。無論、これ以降も自ら槍を振るい、武功を立てているため一概にはそうとはいえないかもしれませんが、そういった側面があったことも注視しなくてはならないでしょう。

忠勝の甲冑として夙に知られている黒色威胴丸具足。その豪快さは見る者を震え上がらせる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?