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小論文「本多忠勝所用武具類とその使用意義について」

はじめに
   本多忠勝といえば、「黒色威胴丸具足」、いわゆる鹿角の脇立の甲冑を着用した肖像画が有名である。また、忠勝愛用の得物として天下三名槍にも選ばれている「蜻蛉切」や姉川合戦図屏風にも出てくる「鍾馗の旗印」、愛馬の「三国黒」も有名である。これらのうち、三国黒を除いた3点は現存しており、現在に至るまで人々に忠勝の武勇伝の息吹を直に伝えている。
 しかし、これら(以後、「忠勝所用武具類」とする)がいつからセットで使用されはじめたのか、そもそもセットで使用されていたのかも不明である。しかしながら、私はこれらが合わせて使用されたこと自体に意味があると考える。そこで、忠勝所用武具類の詳細な内容や二つの肖像画から窺える忠勝の内心と合わせて考察してみたい。

1) 忠勝所用武具類の詳報
 まずはそれぞれの具体的な特徴と伝来・経歴について紹介していきたい。

・黒色威胴丸具足

特徴:胴は鉄蝶番付二枚胴で、切付鉄板札黒漆塗。黒糸素懸威となっている。兜は鉄黒漆塗十二間筋鉢であり、なんといっても鹿角形の脇立と獅噛形の前立が一番の特徴である。他には、顎下に竹節形形汗抜管を伏し、黒漆板札、黒糸毛引威の垂四段を付した頬当や肩にかかった金箔押しの大数珠がある。なお、大袖が現存していない。重さは15.2kgとかなり軽量で、動きやすさを重視している。

伝来・経歴:忠勝の肖像画や長篠合戦図屏風に描かれている。『甲陽軍鑑』の一言坂合戦の場面に、「彼平八郎、甲にくろきかの角を立」とあり、青年期から使用していたと思われる。また、林羅山の『忠信冑記』(寛永3年成立)によれば、「忠勝が家素より一の冑有り。号を鹿の角と曰ふ」とあり、兜自体は忠勝以前より本多家伝来のものだった可能性が高い。その後、忠勝の嫡男・忠政へと伝えられ、現在は「国宝」に指定されている。

・蜻蛉切

特徴:刀長43.7cm。刀身が笹の葉のような形となっており、切れ味が優れている。樋(彫り物)として、梵字と三鈷剣(密教の宝具)が刻まれている。梵字はそれぞれ「地蔵菩薩」を意味する「カ」、「阿弥陀如来」を意味する「キリーク」、「聖観音菩薩」を意味する「サ」、三鈷剣を挟んで最下部にあるのが「不動明王」を表す長梵字「カンマン」である。

伝来・経歴:作者は室町時代に三河国田原(現在の愛知県田原市田原町)で活躍した刀工「藤原正真」。田原城の城代は本多広孝であり、忠勝とは親戚同士であったことから、正真に蜻蛉切を作らせたのではないかと言われている。忠勝が使用したという明確な一次史料は存在していないが、黒色威胴丸具足にある大数珠から考えれば、仏教を崇敬していた忠勝が使用していたことはまず間違いなかろう。現在は個人蔵(佐野美術館寄託)となっている。

・鍾馗の旗印

特徴:縦160cm×横80.3cm。鍾馗とは唐の玄宗皇帝が病にかかり、夢で悪魔に悩まされているときに現れ、皇帝を救った伝説上の人物であり、邪気をはらう魔よけとして旗印に使われたと考えられる。信心深い忠勝の意図が感じられる。

伝来・経歴:この旗印は3枚残されており、一説には狩野永徳が描いたともされている。忠勝が実際に使用したという史料はないが、「姉川合戦図屏風」(天保8年作)にはこの旗印を持つ従者と忠勝と思われる武将が描かれている。

・三国黒

特徴:遺骨などが残されていないため、どのような馬であったかは不明である。ただし、その名前からして黒馬であることは確かだろう。

伝来・経歴:徳川秀忠から拝領したとされ、関ヶ原合戦で鉄砲玉にあたり、その傷で死んだという。実在したという確かな史料はないが、村上国清宛て忠勝書状に贈答品として「真田黒」という名馬が登場しており、「地名+黒」という共通点を有していること、忠勝が三国黒に乗せていたとされる鞍が存在していることから三国黒、ないしそれと似た馬が忠勝の愛馬として実在していたと思われる。
 以上、忠勝所用武具類について紹介してきたが、このほかにも忠勝が秀吉から拝領した伝佐藤忠信所用兜なども伝わっている。多くの武具類が伝来していることからも忠勝の武勇を物語っていよう。

2) 忠勝像の意図
   忠勝の肖像画として以下のものがつとに有名である。

 
   この肖像画の原本は本多家に残されており、写として千葉県大多喜町良玄寺蔵や桑名立坂神社蔵など多く残されている。由来としては忠勝自らが指示して描かせたものとされており、何度か描き直させたという。ただし、これが関ヶ原合戦後とは考えにくい。
   もともと原本は忠勝の菩提寺・良玄寺にあり、元禄年間になって本多家に譲ったという経緯がある。つまり、大多喜で作成されていたのである。関ヶ原合戦後に大多喜へ戻ったであろう慶長5年10月頃から忠勝が桑名城に移る慶長6年4月まで半年しかなく、この間に描かせたとは到底思えない。良玄寺が建立された文禄4年頃にその落成記念として作成・奉納させたというのが妥当であろう。
 

   また、上の寿像と見比べてもほぼ別人のようである。鼻が大きいのは共通しているが、目の大きさや顎髭の長さ、角ばった輪郭が寿像にはない。寿像は生前に作成される公的な肖像画であるため、忠勝の姿をそのまま描いていると考えられる。とすれば、忠勝は自身の容姿にコンプレックスを抱いていたのではなかろうか。何度も書き直させたという逸話がその証拠である。また、黒色威胴丸具足を着用し、采配を持つ姿なのも威厳を醸し出させるための演出だったのではなかろうか。寿像の姿はお世辞にも威厳のあるものとは言えないからだ。
 このように、忠勝があえて甲冑姿の肖像画を作成させたのには忠勝なりの意図があったのである。これは忠勝所用武具類にも言えることなのである。

3) 実例からみえる所用武具類の意義 
 そこで、合戦における忠勝の出立ちとその意義について改めて考察してみたい。黒色威胴丸具足には大数珠が付属しており、戦場では常に身につけていたことが推測される。蜻蛉切に掘られた三鈷剣は煩悩を打ち破るための宝具であり、梵字もまた神仏同様の力が宿ると考えられている。旗印にあしらわれている鍾馗は道教の神である。このことから、忠勝は神仏の力をまとったそれらの武具類を使用することで神仏の加護を得、敵を退散させることを意図したことが窺える。信心深かった忠勝らしいといえよう。
   しかしその一方で、肖像画にみられる容姿に対するコンプレックスの克服という内心も含まれていたとみられる。つまり、それらを着用すること(外見)によって敵軍の戦意消失を狙っていたことも使用した大きな要因だと考えられよう。肖像画や長篠合戦図屏風に描かれている姿を見るだけでもその雄々しさを感じられるし、姉川合戦図屏風に描かれた旗印のインパクトも強い。況してや実物をや、である。その一例として天正12年(1584)の小牧・長久手合戦を見てみよう。
 5月1日、羽柴秀吉の本隊が小牧山城の包囲を解いて美濃へと引き上げた際、忠勝率いる軍勢が追撃している(「細川家記」所収文書)。この時、忠勝は家康から深追いするなと命じており、しばらくした後すぐに撤退している(「細川家記」)。また、明後日の3日には鉄砲隊を率いて秀吉のいた尾張中島郡に出陣しているが(「不破文書」)、戦闘にはなっていない。このように、小牧・長久手合戦時の忠勝の軍事行動は秀吉に対する抑圧的なものであった可能性が非常に高い。
     同じく、天正18年(1590)の小田原北条氏討伐の際にも単独で上総国に侵攻していたことが禁制から確認でき、北条方勢力に対する軍事的な圧力行為であると考えられる。これらの事例から鑑みて、忠勝隊が抑圧部隊ともいえるような意味合いを有していたことが窺えるだろう。

4) おわりに
 以上述べてきたように、忠勝が実利的かつ印象的な武具を使用したのは、心理的、思想的な理由から神仏の加護や自身の威厳を演出し敵軍を抑圧させ、戦意をなくさせるためであった。これは家康および忠勝の生涯とも深く関わってくる。
   元々三河の一国衆に過ぎなかった家康が駿河今川氏や甲斐武田氏との闘争を勝ち抜き、果ては天下人へと成り上がっていく過程においていくつもの苦難があったことは言うまでもない。そのような中で家康家臣である忠勝はいくつもの戦場を駆け抜けていった。その背景には彼自身の武勇もさることながら、それら武具類も大いに影響しているだろう。現に、若き日の忠勝は同時代人物から「唐の頭ニ本田平八」と狂歌に歌われている(「大日本近世史料 細川家史料二」)。
   現在伝わっている武具類は家康に過ぎたるものと讃えられた忠勝に相応しいものばかりであり、まさに「過ぎたる武具」だったのである。それと同時に、人間・本多忠勝を示す貴重な資料ともいえよう。

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