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Mank/マンクの感想 リタとマンクの乾杯の良さを振り返る

「市民ケーン」が、
伴侶を得ても浮気をするという「母との別離」の因果と、
「新聞」と、
アメリカの「選挙」と、
「インタビュー方式の論証ドラマ」
の話で、後の世に多くの「撮影技法」を残したことが現在では大きく評価されている、のだとして。

それを書いたマンキウィッツ氏の肝要は、「映画と選挙(1934年、アプトン・シンクレアのカリフォルニア州知事選)」だと切り取るだけで
本当に良いのだろうか??

持てる人であるマンキウィッツ氏

マンキウィッツ氏は、「自らを憐んで大人に成らない(母との別離トラウマ)」と揶揄したも同然のケーン/新聞王ハーストとは反対に、
帰属すべきコミュニティの強い規範や
帰属集団の稼業としての文筆業や映画があり、
理解と愛と尊敬があり続ける妻(とウィットを解する弟)があり、
日本語で言うと利休好みのようなハイランドモルトを特上とする物の価値観を持ち、
(って、これはゲイリーなんではないか、笑)
酒の代わりに鎮静剤を用意するシブチンではなく、
欧州の中でも理想主義の極まったワイマール共和国はベルリン由来の教養と批判精神を持つ米国コロンビア大学を出た移民である。
ケーンやギャッツビー(1925年、F・スコット・フィッツジェラルド)のような、当時のアメリカを駆動させていた成金のお金持ちではないが、彼らが願って持ち得なかったものを手中に収めている人だ。
第一次世界大戦ではおそらく出征していないのじゃなかろうか。

しかも、
教養を持たないアメリカンの代わりに映画づくりで物語を成立させるべく雇われている映画産業の裏方仕事は、自身のデータを売り物にできる選良の仕事であると重々知り、労働階級に降りはしなかった人でもある、と言えるだろう。
劇中で、映画産業に呼び寄せた弟に「自分達の報酬額を労働者が知れば驚き呆れる」と教え諭す場面があることからも、単純に労働者に寄り添っている訳ではないことが示されている。

「American」というタイトル

生き延びるためにエンタメに尽くしてアメリカを客観視して来なかった人、でもある。
そのマンキウィッツ氏が、ワイマール共和国の理想主義的な価値観から見た、またはユダヤ移民の目から見た、本来書くべきはずの「American」を「トラウマを抉る」という鬼畜な形で物する。
本来書くべきはずという意味は、
誰かに言われて書いたり、友人の死を悼んで書き始めるものではなく、例えハースト氏のことでなくとも、移民生活を積み上げているからには「American」については書かなければならないはずだ、ということである。小泉八雲が「怪談」を書いたように。

そして、プロローグとエピローグがマンキウィッツ氏による物ならば、「市民ケーンはマンクの本」だと言いたい。弟がバラの蕾ウンチクを読むのは、ウェルズ氏が第1稿を読む前であったから、敢えて鬼畜な形を選んだのはマンキウィッツ氏でオーソン・ウェルズによる追加ではないのだろう。

最初と最後にトラウマを仕込むというのは、お話しとしてはキレイにオチが付くけども太宰治よりもあくどい。人間失格もトラウマは冒頭だけにとどめたのではなかったか。
最初と最後にトラウマが仕込まれてあれば、収まりが良いというだけで例えフェイクであってもそのトラウマを信じるだろう。選挙におけるフェイクニュースを信じるかのごとく。

「MANK」は、ゲイリー・オールドマンがゲイリー・オールドマンにしか見えないというマジック(保険)を使って、映画の魔法を体験させる映画である

さて、
皮肉と批判を映画脚本に持ち込んだマンキウィッツ氏は1940年当時に映画をみるアメリカ人達とオーソン・ウェルズに、彼らが求める物を与え、人物伝に精神分析風味を加えれば欧州から見ても教養あると看做される物語になることを世に示したが、
では、「市民ケーン」(オーソン・ウェルズ、1940年、脚本第1稿のタイトルは「American」)を下敷きにしたという映画「マンク」は、何を見るべき映画なのだろうか。

映画「マンク」が、市民ケーンで初めて映画のストーリーに取り入れたとされるインタビュー論証スタイルの代わりに使うのは、
シュールレアリストが使う「寝入ること」である。寝入って夢を見て1930年代の過去の時制に移動する。面白いことには、虚実入り乱れる「マンク」で、過去の夢はファクトである。
(一つ重要なフェイクが混じっているそうですが)

この、回想によって後ろに戻っていくストーリーを、現在の時制で前に進める役割を果たすのが、3月兎よろしく気忙しいハウスマンと、口述筆記者のリタ、マンクハイムの家政婦らである。
バッサリと現在の時制については捨てる見方も多いようだが、
過去のファクトと対照的に、21世紀の現代劇のようでとてもファンタジーな現在パートは見どころである。
ゲイリー・オールドマンは、ゲイリー・オールドマンそのままなのではないかというような、ウイットに富んだクイーンズイングリッシュ(現代劇ならそうだよなぁ)でベラベラしゃべりまくる。ゲイリーを期待して観に行った人は大満足である。
第二次世界大戦直前の農場の宿で(疎開か)、1920〜30年代の映画を作る成金に受けるウィットでもって労働者と会話すると、労働者に労られるという構造。そしてしょんぼりしたりする育ちの良さ。かわいい。

寝入る直前こそ執筆が進むと言い、寝入りの瞬間を引き延ばすためには夜が長くなくてはならない、だから午前中という時間を差し出してでも夜を引き延ばすんだと屁理屈を言うマンク。
マンクを起こす英国移民の職業婦人リタは、選挙と同様、現在の女性(の人権問題)のメタファーでもある。そして彼女の意識は微妙に変化してマンクとの協業を成し、マンクのための良い予兆となる。
#metoo 以前は、弟なりハウスマン氏なりが"良い予兆"となっていたであろう所を、職業婦人のリタに振ったのはバランスがとても良い。

女性については、
マリオン・ディビス(愛人)
哀れなサラ(妻)(市民ケーンの愛人役のダブルミーニング)
口述筆記者リタ(移民の職業婦人)
マンクハイムの看護師で理学療法士で栄養士(移民の職業婦人)
の4人が登場し、マリオンにはサラが、リタには家政婦が、前時代の価値観、重し、道徳としてくっ付いているのが目に見える訳である。

彼女らはそれぞれに面白いし、マリオンの言葉はへーと思わず納得してしまいそうなブッコミセリフが一個あるけれども
(創作なのでしょうなぁ)(フェイク)
(同様に、哀れなサラもマンクハイムの婦人も、ハーストの正妻も、面白いセリフをひとつ言う)
(ハーストは城に。正にお城に。第一夫人、第二夫人、その他と家族を営んでいる訳だから、王政時代の復古な訳だよな、作りも家族に参加する人の精神も。市民ケーンは社内はホモソーシャルで、家庭は王政では無かった)
それは横に置くとして、
我々が見るべきは、敢えてのダブルヒロイン(戦前と戦中)に成っている戦中派の職業婦人リタである。
マリオンのパートは、王様の伴侶である第二王妃と騎士道精神を発揮するマンクの、古式ゆかしいフレームに沿った話だとも捉えることができる。
一つ面白いセリフをマリオンに言わせる作り込みはおそらく、デヴィッドの方の追加だろう。ディズニー・プリンセスを経たフィンチャー・プリンセス。
(いくらフィンチャーでも賛同はできませんよ、微笑)
(哀れなサラを良い方に読み変えて、映画を使って死者を鞭打たないという意味では良いですが)

一方リタは、サーバントとして働く対象への尊敬を取り戻した後のマンクとの関係が美しく、マンクとリタの乾杯=本稿のタイトル画像(Netflixさんより)は、「ドラゴンタトゥーの女」の未来版のようで滋味深い。
〜〜〜
「ドラゴンタトゥーの女」と言えば、書庫で新聞の切り抜きを漁るシーンは市民ケーンオマージュだったのですね。書庫、新聞の切り抜き保存庫っていうものはお金のなせる技であり記念誌やらファイルをブツで置いておくというのは豊かだったよなあ。前世紀までは確かに見ました。
〜〜〜閑話休題

リタとマンクの乾杯の良さを振り返ると、『マンクが様々な人々と乾杯(トースト)すること』は、バイデンvsトランプの選挙批判メタファーと同等に、いや遥かにそれよりも、私にとっては「見るべき所」なのである。

果たして、
リタの助力を得て書かれたAmericanは、〈傑作〉と言われる映画となる。
(シュールレアリスム的には、美女と野獣のバリエーションにも思えるが)
そして見事に人々に忘れ去られる。
「マンク」公開に当たって、本邦においては予習として「市民ケーン」を観なさいという教句が溢れ返り、未見の人の多さが知れた。
もちろん私も観ていなかった(ニコニコで無料で何となく4分の3ぐらい観た)。

「市民ケーン」という映画は、「クリスマス・キャロル」(チャールズ・ディケンズ、英国、1843年)の不幸なまま死ぬ版である。スクルージおじさんに見立てて新聞王を描く意味は当然、英国人だったリタにも通じただろう。
その上、過去の原因と結果は提示するのに、クリスマスの3人目の精霊に会わせずにトラウマを抱えて1人死なせるのである。鬼畜。

もう一言言うと、「American」は英国人の口述筆記者リタを見てしゃべり始めた訳で、ディケンズで行くと決めたのはリタの影響だと言えるのではないか。マンクという映画内では。

面白いことに、「クリスマス・キャロル」のウィキを見ると、「クリスマス・キャロル」の米国映画化は大戦後の1950年以降、「市民ケーン」が行き渡って後であり、ディズニー映画でも何度かバリエーションが作られているようである。
思えば、
ディズニーによるディケンズ解釈の方を先に摂取していたのが、1960年代以降の日本の子供=我々なのかも知れない。

「フィクションによる史実の上書き」という演出に、我々は耐えうるのか

手酷いクリスマス・キャロルを以って
「守銭奴、エゴイストの行く末は明らかでしょう?映画の中では資本家を倒します」とやるのは、
オーソン・ウェルズであり、マンクであり、移民の意思なのだろう。
そのオーソン・ウェルズも、「資本の理論に従って脚本家と新聞を搾取したのだ」としたのが、記者から身を起こしたという父フィンチャーなのだろう。
たぶん。
父フィンチャーの記者魂は尊重しながらも、「市民ケーン」には無かった「教条」を付け足したのが、
または、「理解」と「肯定」を無知なものとして描かれてきた女性を選んで付け足したのが、デヴィッド ・フィンチャーなのだろう。
そして、「なぜ叔母さん(マリオン・ディヴィス)にまでひどい仕打ちをするのか」と批難されたマンクを付け足しのセリフで救い、同時に、市民ケーンで哀れなサラにされたマリオンを意図を持って浮上させたのがフィンチャー親子なのだろう。

入れ子構造を作り、ファクトの部分を主に書いて記者色が強い部分が父フィンチャー。フェイクファンタジーの部分を追加して現代風味を加えたのがデヴィッドではないか。
2人とも、入れ子構造やら、フェイクというのは、面白いけれども中々難しい。
曽我兄弟の仇討ちでも、曽我兄弟の墓はいまだにどこにあるのかは不明なのに、曽我物語は残っているように、フェイクだけが拠り所として残ることはある。

現在の観衆には、フィクションによる歴史の上書きは、スカッとするという気分が重視されていれば概ね歓迎されているかと思う。
しかし、「市民ケーン」で批判の刷り込みにメディアが使われることが有効であったように、「マンク」の気分清涼フェイク回想も、摂取量には気を付けなければならないと思う。
今後長く、Netflixで繰り返し見られるのだとすればなおさら。

マリオンさんは、事実、
裕福育ちならではの鷹揚なパーソナリティであり、アル中でおちぶれた女優として惨めに死ぬのではなく、女優引退後は義理堅くハースト死去ののちに結婚して慈善事業などして1962年まで生きて64歳で亡くなる。

このためマリオンさんの書き換えは市民ケーンの方がフェイクだが、気分清涼になるフェイクファンタジー映画や、良かった探しの書き換えは、
特に、フェイクニュースと同等の見方をするべきだ。

米国人は、妨害キャンペーンの効果もあってか一旦オーソン・市民ケーン・ウェルズからは遠ざかり、忘れ去る。ハースト本人が亡くなった後は、傲慢だったという批判を敢えて見たくないということもあったであろう。
その後、ハリウッドの闇を闇として直視した「ハリウッド・バビロン」(ケネス・アンガー、1965年)や、サイゴン陥落(1975年)を経て成金ハイソサエティが二歩退き、延々と続いている狂騒の1920年代アメリカの一部が終わってからのち、
大仰なことに〈世界の映画史に残すべき傑作〉という位置に返り咲く。

真に偉大な作品なのかについては、疑問符をくっつけながら。

#感想 #movie #マンク #フィンチャーと

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