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運命的な経験とは

私はもうすぐで21歳になる。とタイプした今この瞬間、改めて不安、焦りがこみあげてくる。

というのも私は今大学3年生で、周りの人たちがだんだんと就職活動について考え始める時期である。

今まで私は将来のことはまるでもう1人の自分の人生の中にあるものという認識で、自分のこととして考えてこなかった。

そして将来の夢がはっきりと決まっている人のことを羨ましく思い、同時に憐れんでもきたと思う。将来のことを自分の意志で決める自由を欲しつつもその自由さゆえに苦しんでいるのだ。

中学、高校では時折、進路学習の一環として様々なジャンルの職業の方が自身の人生を語り、「私も学生のころ将来の夢はありませんでした。」とおっしゃる人も多い。そして彼らのお話にはだいたい人生の転換点がある。いわゆる「運命的な出会い」や「運命的な経験」である。


私は今現在、オーストラリアの最西パースに留学に来ている。一般的に留学とは「運命的な出会い」「運命的な経験」となる場合が多い、というのも留学がきっかけでこの職業についたとかそこに住むことに決めたとする人を今まで多く見てきたからである。

私も去年の今頃なんかは、留学が終わったころにはこれだ!という何かに出会えているのだろうとうつつを抜かしていた。

あと2か月ほどで日本に帰るというのに、自信をもって私にはこれだというものには出会えていない。

そこで「運命的な経験」とは何かについて考えた。そしてたどり着いた答えは、
まずそのような「運命的な経験」はない
ということである。正確には今、直面している日々を「運命的な経験」と認識することはできないということだ。

「運命的な経験」とは昔を振り返り逆算し、あぁあれが転換期だったなとかあの出会いがなかったら、、と考える中で認識するものであって、今現在起きている物事がどのように自分に影響するかを知ることは、未来の話である。

だから今の時点で、これは運命なのだろうかとあれこれ考えることは意味がない!
という着地に至った。

またこれは運命に違いない!と思い選択した自分の行動というものは自分の自由意志によるものかということも疑問である。

私は自由に意思決定することを望んでいるとも同時に自分の代わりに「運命的な経験」というものに自分の将来を決めてほしいという願望ももっていたのだ。

それはつまり自分の選択に対して責任を負わないということである。

親に進路を決められたとか、その道しか選択肢がなかったというような状況では、人はその選択肢に後悔するだろう。それは自分の意志で決めることができなかったからであり、運命を信じ選択した場合もその責任は運命にあり自分ではない。これではその人は同じようにいつか後悔をするであろう。

いくら運命的とも思える経験をしたとしてもその経験を踏まえたうえでの選択に対して私は

これは自分がしたいこと、自分が決めたことだ。決して運命ではない。

と強い意志をもって生きていきたい。

と運命論には懐疑的な私であるがここで平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」からある文を引用する。

自由意志というのは、未来に対しては無くてはならない希望だ。自分には、何か出来るはずだと、人間は信じる必要がある。
しかし、洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論のほうが、慰めになることもある。

マチネの終わりに

自由意志を常に持ち続けようとすることは、やはりつらいことかもしれない。責任がすべて自分自身に降りかかるということは精神的に負荷がかかる。

しかし今の私にはそのくらいがちょうどいい。今くらいはその努力をしたいと思う。



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