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あえて「正解を探さない」世界の住人。

久しぶりのマガジン以外の投稿です。笑
マガジンでは、英語を学びながら自己理解が深まることで癒しにつながる、という体験をあれこれ綴っていますが、パーソナルな投稿では、アートコミュニケーターの活動をシェアしてみたり。ときには大好きなこの方について熱く語る。

そう、「ひょっとして、わたしには軸がないのでは?」
 
と我ながら常々思っていました。
よく言いますよね、「自分軸」って大事、と。
その「芯」がわたしはブレブレなのでは?と思っていました。
 
けれども、最近ふっと気づいたんです。
てんでばらばらだと思っていた我が世界には、太い太い軸があったことを。
 
それは「正解のない世界」
 
そういう世界をあえて選んでいることこそが、わたしの軸だったことに。

どういうことかというと、まず我がpieceのひとつ、
英語の学びでわたしが意識していることは、
知識やスキルをインプットすること以上に、
自分なりの感情のアウトプットとして、
楽しみながらコミュニケーションすること。
 
一人ひとり感性が違って、発信する表現も違う。
相手とコミュニケーションをとったとき、
その人の発音がおかしいとか文法が間違ってる、とか
正しさ優先すぎると肝心なもの見落としてしまう
 
ここでの「正解のない世界」は、その人の考え方やあり方ー
数値で換算できないそういった目に見えないもの。

同じように、アートとの関わりだって、たとえばマティス(!)の絵を鑑賞するとして、画家の背景や技法など教養として楽しむ方がいてもいいし、シンプルに「女性の曲線美が独特だな~」「色彩はカラフルなのに物悲しそうな表情」など思ったことをただ言語化してもいい。
 
なんなら、こちらに綴ったように(「わたしの身体感覚回復活動」フォトエッセイ☟)


我がまちの野外彫刻は触ったり潜ったり(!)身体感覚を使って
アートに触れて自分の感覚を揺さぶることもできます。
 
なのに、教養として知ってるアートと純粋にアートに触れることがごちゃまぜになって、「アートとは作者の意図を当てることが真の鑑賞法」みたいな潮流もこれあり。
 
なんというか、芸術を楽しむことさえまるで答え合わせみたいになって正直、息苦しい・・・。
理論武装されたら楽しめるものも楽しめないなあ、と個人的には感じます。

なので、わたしはアート・コミュニケーターとして、自由な「正解のない世界」の楽しさやよろこびを伝えたい。
知識よりまずは感受性を爆発させてOKな世界の扉を開くお手伝いをしたい。
 
そう、この白鳥さんみたいに!!!

目の見えない白鳥さんと、アートを通して
これまで見えていなかった世界を見るamazingな一冊。

(後日たっぷり記したいなあと思っているのですが、一読頂くと私が言いたいことの120%がわかっていただけるのでは、と思います。白鳥さん、最高!!) 

一見この畑違いな語学とアート、わたしが思うに「多様性」というキーワードも共通項だと思っていて、千差万別、一人一人びっくりするくらい感じることや価値観が違うので、それを受け止めることが私にはとても刺激的。 

お~!というポジティブな驚きも、はっ?!っていう困惑のオドロキもどちらも楽しい。 

もちろん、知識の程度を測ることも時と場合によって必要だし、意味はあると思ってます。だけれど、テストでない限り、ときに正解のない世界に没頭してみるのも悪くないんじゃないかなあ、って思うのです。 

そして。最後に、わたしが敬愛してやまないjazz pianistの大江千里さんの生きざまも、まさにわたしにとって、「正解のない世界」を体現されているような存在。

〇歳になったらこうして、〇歳までには〇〇みたいにこうなって、的なフォーマットを生きるのではなく、千里さんご自身がその道の開拓者として、新しい地平を果敢に切り拓かれーわたしたちに希望のひかりと勇気を届けてくれているのです。
 
その具体的な歩みはこの記事で堪能できますよ。


音楽家としての道のりはもちろんのこと、人生って、改めて山あり谷ありー光も影もぜんぶまるごと愛おしい。
ファンであることを差し引いたとしても共感するばかりなのです。
 
そういうわけで。
 
わたしにとって「正解のない世界」を泳ぐことは
自己理解の源であり、生きるよろこびの泉なのでした。
 
日頃競争にさらされて
自分の感情や意見をねじ曲げられたり
反対されたりーそんな世界に辟易されていたからこそ、
の反動なのかもしれませんが。
だとしたら、それはそれでよき!
 
では、一足早い第一弾の夏休みを楽しんでまいります♪
(台風とは逆方向に移動予定。)
 

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