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2021年7月17日(土)|季語と俳人

 久しぶりにノンストップで一冊読んだ。止まれないくらい面白い本だった。

『俳句脳——発想、ひらめき、美意識』(2008年、角川書店)

 全体は三部に分かれている。第一部は「俳句脳の可能性」という題で、脳科学者の茂木健一郎さんが書いたもの。第二部は「ひらめきと美意識——俳句脳対談」という題で、茂木さんと俳人の黛まどかさんの対談を文字に起こしたもの。第三部が「俳句脳——ひらめきと余白」という題で、黛まどかさんが書いたもの。

 この第三部がとにかく面白かった(ちなみに、この部では「脳」の話はほとんど出てこない。タイトルに寄せるために、申し訳程度に言及されている印象さえ受ける)。

 俳人の見えている世界と僕の見えている世界は全く違うんだろうなあと思わされた。

「日常の中に降る雨が、「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。歳時記の花鳥風月と、百科事典の花鳥風月では違うのです。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘を持って行こう」という雨には、降り方の強弱くらいしかないかもしれません。でも、「木の芽雨」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。」(50〜51頁)
「俳句をしていない友人と、九月に信州に出かけたことがありました。山を前に友人が、「まだ全然紅葉していないわね」と言いました。ほぼ同時に私は、もう薄紅葉が始まっている、と思っていたのです。
 そうか、彼女には「全然紅葉していない」としか見えていないのだ、と私は思いました。俳句には薄紅葉という言葉があること、そしてそう思って見てみると、葉の先の方や木の陽をよく受けている辺りが少し紅葉してはいないかと指をさして彼女に教えたのです。
 彼女は、「本当だわ」と驚き、「薄紅葉という言葉があるのね」と、かみしめるように言いました。
 翌年の九月、彼女から「今年も薄紅葉になりました」というメールが来ました。
 言葉を知らないと見えないものが、知ることで見えてくるのです。」(151頁)

 俳句を詠む人たちは季語という特殊な言語を操ることができる。季語は、日常言語よりも現実を細かに描写する力がある。この季語を操る俳人たちは、現実をより細かく切り分ける能力に長け、自然界の小さな変化を敏感に察知することができる。俳人たちは、季語をもたない僕たちには見えていないであろう世界を見つめている。

 ......面白い。こんな話なんぼあってもいいですからね。季語をもっと知りたい。

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