書評#1 宇佐美寛・池田久美子『対話の害』

学習者に学びを提供する形式として「対話」がいかに有害であるか、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』の一幕を引用して説いている。引用もとい「猛烈な批判」である。あまりに猛烈すぎて、ついに最後のページまでサンデルの話題から離れることはなかった。
『対話の害』という抽象的な題に惹かれて手を取った人は意表を突かれたことだろう。もちろん「対話」の「害」に関する普遍的な考察はあるのだが、サンデル氏批判の熱量を考えると、本書のタイトルは本当にこれで良かったのだろうかと思ってしまう。
NHKで『ハーバード白熱教室』が放映されたのは2010年であり、本書が書かれたのが2015年だというから、サンデルのネームバリューや「白熱教室」の話題性を利用するには世間の熱が冷めてしまっていたのかもしれない。この辺りには出版社の意向もあったことだろう。

1.『対話の害』の内容

白熱教室の中でも有名な「トロッコ問題」に関する授業の風景を取り上げ、その「構造」を批判している。
したがって、本書はトロッコ問題に対して何らかの答えを出すことを目的としているのではない。
そもそも問いの形式が完全なのか、授業における学生との向き合い方として、サンデルの手法が妥当なのかを、教育学の観点から考察しているものである。
結論は各自読んでほしい。清々しいまでの批判である。

2.論旨に対して、個人的な意見

とはいえ、哲学的思考における対話の『不要』性については、私も完全に同感である。
対話とは、テーマに関して豊富かつ体系立った知識を持つもの同士で行って初めて成立し得る形式である。
双方がテーマに明るくなければ、当然その内容は「本質」から逸れたものになりやすい。
また知識の量に差があれば、その豊富な側の負担が多くなって「講義」形式となんら変わりがなくなり、乏しい側の知識の確認に終始してしまう。
そういった意味で、教師-学生間ではそもそも「対話」が効果をなす前提条件を満たしていない。学生側は教師に匹敵する知識を持っていない場合がほとんどである。
そして、「対話」は哲学的思考の方法としても相応しいとはいえない。本書で宇佐美が述べたとおり、対話のスピードは哲学的思考に適切なスピードを遥かに超えているからである。

3.サンデルの目的は何なのか

したがって、「対話」は学生に哲学的思考を促す上でまったくの下策である。
そう、あくまでも「哲学的思考を促す」という目的に対しては。
『白熱教室』が学生の思考を促すことを目的としているかについては、大いに疑問の余地がある。
サンデルは明らかに学生からの「問いの枠組みを超えた意見」を避けたがっている。

(暴走する路面電車を止めるために、橋の上にいる太った男を突き落としても良いのかという問いに対して)
アンドルー:最初のケースでは初めから状況の当事者だけど、このケースでは傍観者なわけです。男を突き落として初めて当事者になるわけで…。
サンデル:よーし。じゃあ、このケースはしばらく脇に置いておいて、違うパターンを考えよう。

p.124

(臓器移植を要する5人の重症患者を救うために、健康な1人の命を奪っても良いのかという問いに対して)
男子学生4:僕は違う可能性に賭けたいです。臓器が必要な五人のうち最初に亡くなった人の四つの臓器を使って、残りの四人を助けるんです(一同笑) 。
サンデル:それは名案だ。実に素晴らしい。ただ一つの難点は、私の設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ(一同笑)

p.122-123/124-125

アンドルーは正義-不正義の枠を超えた、「当事者性」の話をし始めている。男子学生4は5人の命か1人の命かという問いに対し、第三の選択肢、ある意味では「とんち」ともいえる答えを出している。
これらの意見に対し、サンデルの反応は「冷たい」。
そしてサンデルはこれらの問いのあと、ベンサムとカントの思想を挙げ、帰結主義と定言的な道徳理論について講義を続けていく。

おそらくサンデルはベンサムやカントの思想の概観を、学生たちにとって分かりやすい具体例を「入口として」解説したかっただけなのだろう。
もしそうであるならば、サンデルと学生との「対話」は決して哲学的思考力を育むためのものではなく、学生の興味を惹きながら、ユーモラスに目的の話題に繋ぐための技術に過ぎない。

この「入口」としてのサンデルと学生の問答をサンデルの授業の本質とみなして徹底的に批判する宇佐美・池田の意見には、どこかピント外れのような印象を受ける。
そもそも、サンデルがこの「空疎な」問答を授業の形態として受け入れることとサンデルがこの授業形態を理想的だと考えていることの間には、論理的な飛躍がある。
少なくとも、時間的な制約がある中で「カント⇔ベンサム」の思想を解説をしなければならないサンデルが、学生の思考力が育まれないということを分かっていて「仕方なく」このような形式を取ったというのは十分に考えられる話である。

このようなケースについてまったく検討しないままサンデルに質問者としての「資格」を問う宇佐美・池田の両者に、批評者としての資格を問いたくなってしまった。

4.サンデルの授業形式は「対話」なのか

また、本書で扱われている「対話」が日常語といくらか乖離していることが気になる。
本書では「対話」という用語が明確に定義されない。『白熱教室』を代表としたいくつかの用例があるばかりである。
サンデル氏の行った問答形式やディベート形式が無修飾に「対話」と呼ばれるのには違和感がある。
一応本書ではソクラテスの例についても軽く触れられているので、それに倣ってサンデルの授業を「対話」と呼んでいるのだろうか。無学につき分かりかねるが。

5.正義の扱いについて

同様に、「正義」を定義しようという試みが最後までなされなかったことにも不満がある。
正義という概念が多値的・多元的であることには触れられた。またトロッコ問題の例を通して、正義を語るためには状況を詳しく定めることが必要だということも述べられた。
しかし、状況を正しく把握すれば「(倫理的に)正しい行いは何か」という問いに答えられるというのは、これまた浅薄な理解である。
「どのような行いが正義か」を語るためには「正義とは何か」を考えなければならない。
むしろこちらこそが「哲学的思考」であって、それを育むため、学生たちに考えさせるべき問題のはずだ。したがって、

(「赤十字基本原則」を挙げて)
看護を学ぶ学生にとっての正義とは何か。右の、「人道、博愛、奉仕の精神」である。

p.82

このようなことを断言してはならない。

6.まとめ

昨今は中身の伴わないディベートのコンテンツが蔓延している。発信者自身は当然それらをエンタメだと了承しているわけだが、視聴者がそれを理解しているかは分からない。分からなくなってしまった。
もしあなたが「他者との議論こそ知的生産の本質である」などと考えているのであれば、一度本書を手に取ってみることをおすすめする。
「議論」についてメインに書かかれているわけではないが、サンデルへの猛烈な批判を通して、あなたの「対話」への幻想を徹底的に破壊してくれるだろう。

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