書評#5 フランソワ・デュボワ『作曲の科学』

ジェイラボの活動の一環として、『作曲の科学』を読んだ。下サイトにてチクシュルーブ隕石さんの書評が公開されているので、是非ご一読頂きたい。


養老孟司氏が著した『唯脳論』より引用する。

音楽は情緒的であり、言語は論理的である。そういう人もあろう。これは極めて曖昧な叙述である。恋人どうしの話し合いは、内容を傍受すれば論理的にはほとんど無意味であろうが、それが「恋人どうしの話し合い」であることは、誰にでもわかる。だから睦言という。視点を変れば、音楽くらい論理的、形式的なものはなく、言語くらいいい加減なものはない。公平に言って、五十歩百歩であろう。
では、音楽で論理が示せるか。その論理が、言語を用いた論理の意味であるなら、それが音楽で示せるはずがない。だからこそ、音楽が生じる。その意味では、音楽はそれ自体が論理だとも言える。

養老孟司『唯脳論』p190 (太字はimadonの手による)

引用が長くなってしまったが、実は僕も、音楽とは情緒的なものであると思い込んでいたくちである。音楽に論理があるとは思いもしていなかった。

論理とは何か。前提と結論、2つの文の間に与えられるいち関係性の記述である。あるいは、その推論にある種の「正しさ」を与えるルールであると言い換えてもよい。論理とはすなわち(厳格な)ルールである。これならば明快である。

では、芸術にルールは存在するのだろうか。僕の願望としては、そこに言語と紐づいた論理という意味でのそれは存在してほしくない。これが正しくてこれが間違っているというような価値判断ではなく、各々が身の丈の価値基準によって芸術を楽しめればいいと本気で思っている。

しかし、例えばポップスなどが行き着く先はどうもそうはならなさそうだというのが私の所感である。正直言って、自分の富を最大化することを目的にしていない(と僕が判断できる)アーティストはほとんどいない。みんな「売れる」こと、ライブハウスを一人でも多くの聴衆で埋めること、CDを一枚でも多く売ることを目的にしているようにしか映らない。それは商業主義という一つの大きな論理-意味の体系に芸術のいちジャンルが呑み込まれてしまったことを意味する。
陳腐かもしれないが、音楽は哲学、最低でも文学であってほしい、というのが僕の常の望みである。

本書『作曲の科学』は、音楽の論理をありのままに伝えた本ではない。それは「科学」という語をタイトルにつけていることからも分かる。音楽の論理は言語では語り得ない。しかし科学とは言語と紐づいた論理の体系である(純粋な論理ではないにしても)。
つまり本書は、作曲において重視すべき音楽の論理を、言語というプラットフォームに載せて僕たちに解説するものである。

論理というからには、それはなにか厳格なルールであるに違いない。言語と紐づいた論理では、それは理解可能性に根ざすものであるような気がしている。理解可能なものは正しく、理解不能なものは正しくない。そこにはきっと多数決の論理も統計も因果性のジレンマも存在するだろうが、僕は大まかにはそういった「理解」をしている。
では音楽における論理が何に根ざしているかというと、(本当は語り得ないものなのだが、あえて語るとすれば)それは「快・不快」の感情だろう。黒板をひっかく音や金切り声は不快で、虫の声やハープの音色は心地よい。そういった非論理的な感情の発露こそが音楽の根底にあるものだと思う。もっとも、日本人以外にとって秋の虫の声は不快であるという統計もあるので、これは一般論ではなく、ものの例えである。
しかしだからこそ、言語に基づかない純粋な快楽を基準にした論理は、極めて人間的で愛おしいように僕には思える。そこには差異を気にしない暖かさがあり、一人ひとりの価値観を重んじる丁重さがある。
きっと音楽における論理とは、本書で示されたような音楽の科学的な解説とは根本的に違うものなのだと思う。本書で題材にされているのは作曲のための「音楽理論」の解説である。それは言語によってなされている。言語とは普遍の象徴であり、そこには排他的な意味合いというものがどうしても存在してしまう。

純粋な音楽の論理とは、結局はすべてを一つにまとめてしまうような「体系」としてではなく、個々人の内部にのみ存在する私的・内的な世界として存在するのではないか、とそんなことを考えた。

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