書評#4 岸由二『生きのびるための流域思考』

ジェイラボの活動の一環として『生きのびるための流域思考』を読んだ。下サイトにてあんまんさんの書いた書評が公開されているので是非読んで頂きたい。


本書のタイトルを一見すると、「社会を」生きのびるために必要な思考の流れ(=「流域」)を説いた本なのかと勘違いしてしまうが、実際にはまったく異なる。「流域」とは文字通り流域である。「生きのびる」とは富を得る、あるいは失わないことではなく、文字通り生きのびることである。本書は、水害の絶えない日本で生きていくための思考法を、「流域」というキーワードを中心に捉えなおす本である。

流域とは何か。筆者は「雨の水を川に変換する大地の構造」だと言う。あるいは、「雨の降る大地における固有の凹凸」とも。
氾濫をはじめとする水土砂災害は、一見すると豪雨ののちの河川の増水によって引き起こされるものだと感じられる。だから、それら水害を防ぐためには降雨に対する「河川の」ふるまいに着目しなければならないと感じられる。それはまったく間違っていない。しかし、そもそもなぜ河川ができるのかを考えれば、水の循環の捉え方、すなわち治水の仕方が大きく変わる。
筆者によれば、「流域」とは水の循環の基本単位、大地の細胞である。雨が降ったとき、そのうちどれほどを集水し、どれほどを保水し、どれほどを流水するのか。雨水がいかに、どのようにその場に留まるのかという視点で大地を眺めることで、流域の「地図」を描くことができる。河川はその地図のいち形態にすぎない。そして、流域地図は行政区分による地図よりもはるかに、自然災害から人が生きのびるという点で優れている。

人類がある対象を理解しようとするときに、流域のような「切り分けることのできない最小単位」を考えたがるのはなぜなのだろうかと気になった。
本書の例でも出てきた細胞もそうだし、分子や原子、さらには数字なども同じである。分子や原子の存在を仮定することが物理学的な世界解釈を大いに推し進めたのと同じように、水の循環に「流域」を仮定することで実際の河川や生態系のふるまいをよく理解することができた。それはいったいなぜなのだろうか。
まず間違いなく言えるのは、人が何かを「理解する」とは言語によって行われるということである。ただ目に入っているだけでは、あるいは耳にしているだけでは不十分で、言語を通じて捉え直してはじめてそこにあるものを「そこにある」と理解することができる。そして、言語には文字という最小単位が存在する。思考(言語)と文字との対応が世界と最小単位との対応に何の関連もないとは思えない。私たちは言語の構造に深く影響を受けていて、それをそのまま世界解釈の構造に「当てはめてしまって」いる。
そう考えると、原子も数字も流域も質的にはまったく同じもので、実は偉大な「発見」でも何でもなく、単なる認知が織りなすマッチポンプではないかとすら思えてしまう。
もちろん文字と原子(や流域)の二つの構造が似通っているというだけですべての論理的説明がついたと考えているわけではない。しかし考えてみれば論理も最小の論理式から成り立つひとつの「世界」であるのに間違いはなく、言語の構造は真偽(≒正しさ)にすら影響を与えているかもしれない。であればそこに論理的な証明を与えることはできないのではないか。
そんなことを考えた。

自然界とはいかにも複雑で、さまざまな構造が入り組んでいる。水の循環などはその典型だろう。大地の形状や地質、気温、湿度、気圧など、挙げれば切りがないほどの要因が複雑に入り組んでいる。しかしそのままにはしておけない。人はそれを支配しなくてはならない。なぜなら、水は人が生きることに深く紐づいているからである。水の循環がアンコントローラブルであるということは、自分が明日生きているかどうかを「保証」できないことを意味する。だから人は水を支配しようとする。明日も「生きのびる」ために。
そういった点で本書のタイトルには嘘偽りがなく、極めて秀逸だと私は思う。


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