書評#2 小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』

本書は「ナチスは良いこともした」という、筆者曰く俗評高まる言説を歴史学的見地から検証するものである。
正直なところ私自身はこのような論を耳にしたことがないし、本書を読むにあたっての前提知識として位置付けられているナチスの個別の政策についても、はっきり言って全くの無知であった。
よって私自身、本書の各記述の真偽を語ることは出来ない。特に、各章で歴史的事実として語られるものが本当に正しいのか、それをちまちまと検証する気はない。すべては著者の「誠実さ」に依存するのみである。

本書を読み進めるのはとてもきつかった。
なんせ、「はじめに」を読んだ段階で内容が推察できる。

民主的に選ばれた政権だ、アウトバーンを作った、失業率を低下させた、(略)、制服が格好いい、などなど。本書で詳しく検討するように、これらには事実認識として誤っているもの、事実関係は間違っていないが各々の政策が置かれている歴史的文脈への理解が不十分なものが数多く含まれている。

「はじめに」/小野寺拓也 p.3-4

「ナチスは良いこともした」論者が論拠としがちなナチスの政策を一つ一つ取り上げ、それを専門家たる著者が丹念に潰していくのを見せつけられるのだろう。
ナチスを専門として研究する歴史学者が「事実に即していない」と言うのなら、それはそうなのだろうと信じるしかない。歴史に関する主張の強度は、ほとんど事実をサポートする資料の多寡で決定する。
一般人が専門家より多くの文献を渉猟していることはないと思われるので、私から見ればこの論争は専門家の「勝ち戦」である。
上で述べたとおり私はナチスについて無知であるし、個々の政策について深く知ろうというつもりもないから、本論を読み進めるための動機がない。
だから「はじめに」以降なかなか手が進まなかった。これは完全に私個人のモチベーションの問題であるから、ナチスの歴史に興味があるという方は手に取ってみても良いだろう。

ただ確実に全員に言えるだろう懸念点は、タイトルが過激なせいで電車の中では読めないということである。とても困った。

本書の構成

⑴ まず「はじめに」にてこの本を著したきっかけ、そして歴史学に通底する理念が語られる。
⑵ 第一章・第二章・第三章は、本論へ進むための前提知識のおさらいといったところだろうか。
ナチ党の成立・急進、そしてナチ党と国民とがどのように連関し合っていたのかが歴史学者の視点で語られる。
⑶ 第四章以降はすべて並列構造だといっていい。「良いこと」論者が拠り所にしがちなナチスの政策を各章に一つ取り上げ、その政策が①オリジナルなものか ②どのような目的の下行われたのか  ③どのような結果をもたらしたのか の三つの視点から分析する。この繰り返しである。

以下、⑴〜⑶について思ったことを書いていく。

⑴-1 歴史学につきまとう「価値判断」

私たちが過去を振り返るとき、そこにはつねに「切り取る」という行為が付いて回る。
          (略)
何が言いたいかといえば、過去を「切り取る」ときに自分のその時々の立場性とまったく無縁でいることは不可能だし、そもそもそれは歴史研究の現実と著しく乖離している、ということだ。

「はじめに」/小野寺拓也 p.4-5

歴史とは神の視点で書かれた純粋な「記録」ではない。あくまでも「人が」振り返ることのできる範囲を振り返ったものであるし、それは振り返る当事者の「選択」によってなされるものである。
選択である以上、そこには明確に価値判断が存在する。何を振り返って、何を振り返らないでおくべきか。「べき」は価値判断からしか生まれ得ない。

この厳然たる真実に触れている点は、私が著者の「誠実さ」を測る上でとても重要である。

⑴-2 歴史学に通底する3つのレイヤー

すなわち、「ナチスは良いこともした」という主張には、歴史学の立場から丁寧に「話せばわかってもらえる(かもしれない)」次元と、議論する者それぞれの立場性に絡む「話してもわかり合えない(かもしれない)」次元の両方が含まれている、ということである。
歴史的事実をめぐるこうした問題を別の観点から整理すると、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討することができるかもしれない。 

「はじめに」/小野寺拓也 p.6

歴史学は何らかの形で事実性に立脚しなければいけない。それに反するものは主張の根拠とすることはできない。
          (略)
もっとも、こうした〈事実〉のレベルで片付けられる問題は、実はそれほど多くない。歴史学においておそらくもっとも重要な、しかし社会においてしばしば非常に軽視されがちな点が、二番目の〈解釈〉の層、歴史研究が積み重ねてきた膨大な知見である。

同上 p.6-7

歴史にまつわる議論を分析する上で重要となるのが、この〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三つのレイヤーであると小野寺は言う。
〈事実〉とは、検証可能ななんらかの記録に基づいた情報のことである。特に目新しいことを言っているとは思わない。この次元で誤ったことを述べる人はそれほどいないらしい。
次に〈解釈〉とは、小野寺が言うには「歴史研究が積み重ねてきた膨大な知見」であるが、これは「文脈の理解」と言い換えることができるだろう。文脈とは個別の〈事実〉どうしを結びつける関係性であるが、それ自体は〈事実〉に基づいていないかもしれない。しかし「歴史研究で積み重ねられた膨大な知見」ならばそこに正しさを与えることができる。数え切れないほどの「相互チェック」を経て、〈解釈〉の誤りや偏りが起きにくくなっているからだ、と恐らくこういうことだと思う。
そして〈意見〉。本書を読む限り、これは一般的な語義と同じであろう。特に触れられていない。

この3つのレイヤーこそが、歴史学でなにかを主張するにおいて重要だと小野寺は述べている。
確かにこのような階層構造を近似的にでも認識できている人間をSNS上でほとんど見ないので、これを明示している時点でやはり著者に暫定的な「誠実さ」を感じ取ることはできる。

ただ残念だったのは、本書における各議論が〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分かれていなかった点だ。特に、歴史的文脈として示されている部分が先行研究に基づいた〈解釈〉なのか、それとも著者独自の〈意見〉なのかが分かりづらい。
「読書案内」として参考となる文献を示してくれてはいるので、それを読めば分かることなのだろうとは思う。しかし三層構造の重要性を説いている以上、それが〈解釈〉と〈意見〉のどちらなのか、宣言くらいはしてくれても良いのではないか。

だがおそらくそれは難しいだろう。
私は、正しい主張のすべてを綺麗に3つのレイヤーに分けられるとは思わない。特に、〈解釈〉と〈意見〉はほとんど同一平面上に存在するとすら考えている。そして、歴史や政治などの分野で議論が絶えないのもこれと無関係ではないはずだ。

(2) ナチズムとは何か?その歴史

ナチスの歴史や政策に興味がないと上で書いたが、そうは言っても知識を仕入れること自体は快楽を伴うものである。ナチズム研究者たる著者によるその概要が、ある程度詳しく書かれている。
ここに書かれている事実自体はそれなりに興味を持って読めた。

⑶ ナチスの政策に関する各論

上でも述べたが、「ナチスは良いこともした」論者が論拠として用いがちな政策、その〈事実〉を取り上げ、①政策がオリジナルなものか ②その目的 ③もたらした結果 の3つの観点から〈解釈〉している。
そしてそのほとんどすべてにおいて、①ナチスの政策はそれ以前のものを「継ぎ剥ぎ」しただけであり、オリジナルなものとは言えない、②目的は「民族共同体」を形成することにあり、純粋な善意によるものではない、③結果は十分なものではなかったか、あるいは完遂される前にナチス自体が解体された、と結論づけられている。
これらの論理展開に基づく〈事実〉が正しいかどうかを私は判断できないので、結論の真偽に踏み入ることも当然できない。〈事実〉を認めるのであれば、①②③の結論はいずれも自然に導かれるものだろうとは思う。しかし、

ナチスは「良いこと」もしたのか?

この問いに答えるためにはまったく不十分だと言わざるを得ない。例えば、

①政策がオリジナルなものか について、行為のオリジナリティとそれが「良い」ことかどうかに深い関連があるかどうかは明らかでない。
これは「ナチスの先進的な政策を見習うべきだ」という意見の「先進性」への反論だろうが、「良い-悪い」を論じる上で著者が真に問題とすべきなのは「見習うべき」の部分だろう。有効な反論とは言えない。

②政策の目的 について、「目的が良くないから過程も良くない」という論法が正しいかが明らかではない。ナチスの目的が「民族共同体」を構築することにあったとして、そしてそれが優生学的・人種差別的側面を多分に含んでいたとして、その過程となる個別の政策がすべて「良くないこと」になるのだろうか。適用の仕方を変えれば現代の政策に通ずる部分もある、そう考えることはできないだろうか。
また、そもそも「純粋な善意」に基づく政策など本当に存在するのだろうか。

③政策がもたらした結果 についても同じである。「結果が良くない」ことと「行為自体が良くない」ことに関連があるのか、あるとすればどのようにあるのか、まったく明らかではない。 

「ナチスは『良いこと』もしたのか?」という問いに答えるためには、「良い」とはどういうことかを先立って明らかにしなくてはならない。
個別の政策における文脈をいかに仔細に述べようと、それはその政策が「良くない」と言えることには微塵も近づかない。

再度引用する。

すなわち、「ナチスは良いこともした」という主張には、歴史学の立場から丁寧に「話せばわかってもらえる(かもしれない)」次元と、議論する者それぞれの立場性に絡む「話してもわかり合えない(かもしれない)」次元の両方が含まれている、ということである。

「はじめに」/小野寺拓也 p.6

〈意見〉は「話してもわかり合えない(かもしれない)」次元に属するものだと著者は考えているのだろう。つまり、本書における「良い-悪い」の価値基準は結局、著者の頭の中にしかない。
〈事実〉と歴史研究の集積(=〈解釈〉)を書き連ね、「これが『良いこと』とはとても思えませんよね」と読者の頭にある価値基準にすべてを委ねている。感情的に訴えかけている、といっても差し支えない。

正直なところ、SNSで起こったこの論争に「話せばわかり合える」余地があるとはとても思わないが、唯一その可能性を引き上げることができるとすれば、それは「『良い』とはどういうことか」というすべての前提となる問いについて各人が考えることだろう。
本書には読者をその問いへ誘導する意図がまったく感じられない。だから、本書を読んでもきっと「わかり合えない」。
著者はそもそもそんなことを想定してはいないのである。

本書の議論の先に「ナチスは『良いこと』もしたのか」という問いの答えがあるとは思わないが、ナチズム研究者たる著者の歴史学への真摯さ、学者としての手腕が否定されるわけでもない。歴史的事実だけを見れば正しいことが書かれているのだろう。
ナチスの歴史や思想、政策の概観を知るには良い入門書になるのではないだろうか。

…いや、重大なことを忘れていた。本書を入門書として扱えるのは、〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層構造を俯瞰できる人だけである。著者の〈意見〉を間に受けないために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?