自由が不自由になる瞬間

自分は今自由である。

"自由"という言葉の定義にもよるが、親に大学に通わせてもらい、勉強をし、将来への歩みを着実に進めている。自分が何か「やりたい」と思ったときにその選択肢を阻む絶対的な要因がないことを「自由」と呼ぶのだと今は思っている。

だが、この自由は当然永遠に続くわけではない。時間が経つにつれて我々はありとあらゆる場面で選択を迫られる。昼ご飯を何にするか、明日は誰と会うかなどの短期的で些細な選択はもちろん、数か月先の自分の未来を想像してその自分に近づけるための長期的な選択もある。そして、自由はその選択のたびに失われていく。

自由に選択できる環境があることは非常に幸せなことだといわれる(もちろん自分もそう思う)が、あまりに選択肢が多すぎて未来の自分のビジョンを想像することができないことが現状の大きな悩みだ。「今自分は何がしたいのか」「1年後の自分は何をしているのか」さらに言えば「将来自分はどうやって生きているのか」「具体的にはどんな職に就きたいのか」そういった『人生の目標』を立て、それを達成することが人生の豊かさにつながるのではないか。

「自由に選択できる環境があること」はそれだけでも十分幸せなことだが、これは所詮他人から与えられたものにすぎない。「自己の目的を立て、それを達成する」ことが、自由という基盤を持った自分にとっての自己決定の幸福であり、自分が生きるうえでのテーマとしている「人生の幸福量」に直結してくる。その手段として選択の自由が用いられるべきなのである。

少し話は戻るが、この選択の自由は時が経つにつれ失われていく。今日感じた例でいえば、この春休みの帰省ではもう父親と食事をすることができない(東京出張に行ってしまったので)。春休みにもう一度家族で食事をしたいと思っていたが、もうそれはかなわない。自分がやりたいと思ったことができるかどうか、アンテナを立てていなければそのタイムリミットは知らないうちに訪れてしまう。俗的に言えば「後悔してからではもう遅い」のだ。そして、その「自由が不自由に変わる瞬間」というのは往々にして唐突に訪れる。そして、どうしようもない焦燥感にかられる。その気持ちを感じてしまうのがどうしようもなく嫌で、だからそれを避けるために常に自分を見つめなおして律さねばならない。「自分の気持ちに正直に生きる」ことをせねばならない。

何を目的にするかで最終的な幸せの形は様々に変わるが、幸福を感じる最も基本的なプロセスとして「目的→実行」の自己決定によるものが大きいと思う。やりたいことをやる。そのために行動することが長期的な幸福につながると信じている。途中途中でわき道にそれることがあっても、その軸だけは曲げてはならず、理想の自分を探し続けるために常に周囲との交流をしていくことも大切だと思う。

自由な自分へ。どうか不自由を感じることなく生きていけますように。

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