見出し画像

「存在芸術」はかっこいい!生き方そのもので表現できる世界に! - VRとアバター

 Twitterリスト「VRC存在芸術」を作った。私が個人的に大好きな方々だ。バーチャル世界での「存在の自由」を自分のものにして、存在することそのものを全力で謳歌している。私は彼女や彼らをほんとうにかっこいいと思い、勝手に尊敬している。もし入れられて不快だったら申し訳ない。

 VRとアバターの力で、人類は広く、自分自身の存在を芸術の対象にできるようになりつつある。肉体と存在がひも付いていた今までは、容姿や存在感、社会の硬直性により、自分自身の生き方や存在を表現の対象にできる条件は少なかった。芸術は外部に出力するもので、自身がそのものになることは難しかった。しかし現代では、VRという手段で自分を自由に表現し、他者と共有することで、自分の存在を表現として成り立たせることが可能になった。「存在芸術」は、その自由を自分のものにして、全力で楽しんでいる状態だ。

 存在の自由を謳歌することは、アバターの力に頼ることだけを意味しない。また、偽りの自分を無理して作り上げることも意味しない。アバターの力を理解し、自分という存在を引き出すことかもしれない。能動的にしろ無意識的にしろ、かなり自然な状態で自分を確立している。強みも弱みも自分として受容して、存在としての深みと実在と方向性を、情報の総合体として世界に刻み続けている。リアルとバーチャルが入り乱れた空間で、行動様式として生き続けている。

 自由を自分のものとした上で、ガッチガチに自分を貫いた状態も存在芸術だし、流転する自分自身を受容している状態も存在芸術だ。何かを極めても、何も極めなくても、やりたいときに何かやっても存在芸術。存在芸術は、機能としての自分を、自分の自然な意思で乗りこなして、存在としての自分の動かし方を知っている。

 人類は「存在の自由」を技術的には手に入れつつあるが、謳歌できる人はまだまだ限られている。そして我々はまだ「自分自身の存在を表現できる技術」を未知で魔法的なものだと思っている。だから未知との遭遇を果たしたことで、技術の複雑さに飲まれてしまい、自分の存在がわからなくなって病んでしまう人間がたくさんいる。

 VRやアバターと言っても、人間が豊かで自由に生きられるようにするための道具だ。ヘッドセットを被り、全身のトラッカーで存在を表現することも、洞窟の壁に木炭で絵を描くことも同じ。もっともっとたくさんの人がこの自由を乗りこなし、創造的に存在として生きられる方法を会得できるようになれば、絶対に楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?