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「美少女になった我々は優しくなれたのか?」メタバースがもたらした疑問

 「メタバースで美少女になれば優しくなれる」。そんな理想が当初はありました。しかし現実に「美少女アバター」を使うメタバース、今回はVRChat日本語文化圏の我々は優しくなれたのでしょうか。いくつかの仮説を考えてみたいと思います。

 「優しくなれる」の理由に「プロメテウス効果」が挙げられます。オンライン上で肉体の自分とは異なる様相のアバターを用いると性格が変わるのではないか?という効果です。特にVR(人工現実感)では「主観的に見て自分自身がそうである」という感覚になるため、プロメテウス効果が発揮しやすいと考えることができます。

 私自身はメタバース生活でセクハラや性差別を受けて嫌な思いをした経験や、生理用品やシリコンの乳を長時間身に付けて活動し、動きづらかった経験から「ある程度は異なる生き方を歩んできた人間の主観的な感覚を体験できる」と考えています。

 しかし、それは私がある程度探究心と尊重する意思を持って他者の感覚を想像しようと考えたからであって、それなりの知見が無ければ難しいとも思っています。こうした一種の優しくなれる状況は、当事者の感覚に想像を広げられるという限定された環境下においてのみ発揮されやすいと考えています。

 私の実感としては「美少女になれば優しくなれる」には懐疑的で、私自身はアイデンティティと他者からの認識を一致させることができて精神的な余裕が生まれたからだと感じています。特に私の場合は、美少女になりたいというよりは、性別のギャップを縮めるためにアバターの力を借りているという意味で少数派になるだろうとは思います。

 初期の人間は有識者だから優しくなれたのかもしれません。正確には「なぜ?」を探究する人たちだから、VRを他者理解と尊重に応用する発想があり、それを運用できていた可能性があります。「インターネットが広まれば民主主義が発展する」と考えた初期のインターネット開拓者に近い存在です。しかしインターネットは分断を生みました。なぜでしょうか。

 年齢層も大きいかもしれません。あくまで私の場合ですが、人生経験が長くなったから余裕と想像力ができて優しくなれただけで、最近は純粋にVR人口の低年齢化が進んでいるのかもしれません。また、初期VRメタバースの人間は「美少女になれば優しくなれる」という「信仰」のもとに優しくなっていたかもというのが最近の私の考えです。

 VRChatが何らかの利益を追及できる場になったことも原因かもしれません。損得感情や名声・富に対する嫉妬心は容易に「かわいい存在であることがもたらす優しさ」という繊細な効果を凌駕してしまいます。極端に言うと自己表現の効能や豊かさを経済的事由がもたらす感情が奪ってしまうという事態が起きているかもしれません。

 当初は自己表現と実験の場が中心だったメタバースが優しさを発揮できなくなったのは、実際の損得が発生する空間になり、生活全般が移ってきたと考えることもできます。

 現状、インターネットやメタバースが優しさを実現できてないにしても、「インターネットで民主主義を実現させる」「メタバースで優しさを実現させる」という理想自体は必要です。実際に他者理解の方法としての可能性はあるわけで、実践することで少しずつでも実現させていくことはできます。私は引き続きメタバースがもたらす理想の世界を目指していきます。

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