見出し画像

雑記:社畜の娯楽とラーメンの快楽

 筆者は社畜である。以前の職場では日曜日も八時間は働いていた。そして転職した今でも結局、平日終電は当たり前の日々。まさに社畜である。

 だからこそ、筆者にとっての食事とは、数少ない娯楽の時間だ。

 それでも普段はコンビニなどで手軽に済ませがちなのだが、敢えて外食……とんかつ、中華、ラーメンといった店に繰り出す時は、明確に食事を娯楽として楽しみたいという前提の下で、その日の店を選んでいる。

 それだけに、ハズレの店に遭遇してしまった時の落胆は大きい。

 そして、これが顕著に起こるのがラーメンだ。

 まずいラーメンに遭遇する事は中々ないのだが、それでもハズレと感じるラーメンに出会うことはママある。ハズレと感じるということは具体的には「この店は今回きりでいいかな」と思ってしまう店だ。
 こうした店に遭遇すると、せっかく数少ない娯楽の時間として新たな店に挑戦したのに、時間を無駄にしてしまったという気持ちが脳裏をよぎる。

 では、どういう店が該当するかというと……まずくはないのだ。それは、チェーンでは感じられない上品な味だったり、素材の味が感じられたりするのだが、何度も通いたいとは思えない。そんな店だ。味について、ポジティブな表現を並べることは出来る。だが。美味しいとも言えない。故に、何度も通いたいとは思えない……難しいところである。

 これだけでは、ただ微妙なラーメンに出会うとガッカリするよね、という話で終わってしまうなのだが……ふと、考えたのである。

 では、何度も通いたくなる店とは、アタリの店とはどういう店だろうか。

 これは、エンタメのコンテンツを考える上で無視出来ない問いだ。
 サブカルの世界のラーメンモノにおいて、知らない人は居ないであろう、かのラーメンハゲこと芹沢達也はかつてこのように語った。

 料理をうまいと感じる際、そこには未知への感動と、
 既知への安堵という両面がある。

らーめん才遊記「百花繚乱玉ネギラーメン」より

 この未知への感動、という言葉は平たく言うと、刺激だ。
 ただ慣れ親しんだだけの味であればそこに刺激は無い。食べた時に何かしらの刺激が加わる事で記憶に残る、もう一度この刺激を味わいたい、と思うようになる、この刺激という快楽を求める、というわけだ。

 そして、この刺激と言う言葉を軸に、今までに出会った微妙なラーメンたちを振り返ると、確かにどれもが刺激に欠けるラーメンだったと気づく。
 上品な味だとか素材の味を感じられるラーメンなどとというのは、要するに無化調がウリで、その分パンチ力に欠けるラーメンに多く感じられた。
 あるいは、濃厚煮干しや家系など、コッテリ感がウリであるはずなのに、どうにも味がボヤけた薄味のラーメンであるとか、そういうのである。

 刺激。

 なるほど、と思う。実際の所、真に美味い、不味いが分かる人間はそんなにいない。これはラーメンハゲがさんざん言って来た言葉であり、実際、筆者も自分がそこまで美味い不味いを分かる人間だとは思っていない。
 多くの人間は情報を食ってるとは言わないが、ラーメンにおいては特に、分かりやすい刺激の有無=満足感に繋がりやすいと感じる。

ぼざろの喜多ちゃんは情報を食ってるタイプ

 この刺激の有無の重要性を裏付ける言葉として、芹沢は最新シリーズの「らーめん再遊記」ではことあるごとに「家系か二郎系でもやれ」と言う。

スープも業務用スープでいい。
また、それですかァ~~~!?

 これも刺激と言う文脈で考えるととても分かりやすい。家系は豚骨のコッテリ感に醤油の味の濃さのダブルパンチを軸に、店頭のニンニクや豆板醤といった組合せでどこまでも舌に来る刺激がウリのコンテンツだ。
 そして、二郎は言うまでも無く、量と言う名の刺激が胃袋に直接攻勢を仕掛けてくる。そこにニンニクアブラカラメ。どれも強い刺激が魅力だ。
 蒙古タンメン中本をはじめとした辛さがウリのラーメンブームも、同様に唐辛子による刺激を軸にしてると言えば、とても分かりやすい。

 つまり、アタリの店とは何かしらの刺激が得られる店ということになる。
 もちろん、ただ刺激だけの店ではチェーンでも問題ないということになってしまうが、少なくとも美味い、と思えるその足掛かりとして何かしら軸になる刺激を持ち味にしないと、その土俵にすら上がれないという話になる。

 この刺激というものは、ようはコンテンツの魅力や長所、と言い換えても問題ないだろう。だが、魅力とは、長所とは……と考えてしまうと、中々答えが出ないモノだ。あるいは、それこそ言葉遊びで終わってしまうだろう。

 そこで「どういう刺激が得られるのか」と言い換えてみると、コンテンツの軸が自然と見えてくるような気がする。逆に、どれだけ考え抜いて、ロジックを組み立てたコンテンツでも、このベースの刺激がボヤけてしまっているようでは、きっとユーザーの心には届かないのだろう。
 それこそ味のボヤけた、上品さだけがウリのラーメンに成り下がるのだ。

 ここ十年、ガラケー時代のポチポチゲームにはじまり昨今のスマホゲームでも常にガチャが用意されるようになったのも、ここまでの考察と照らし合わせるととても自然に感じる。ガチャはとつてもない刺激であり、快楽だ。
 それが筆者のように、娯楽の時間も満足に用意出来ない人々にとっては、お手軽に刺激と快楽を味わえるわけである。流行る訳だ。家系のように。

 もちろん、手身近に味わえる刺激が正義というわけではない。それこそ、筆者が昼に時間を割いてラーメンやとんかつを食べに外へと繰り出すのは、まとまった娯楽の時間をちゃんと取ろうとする意志の表れでもある。
 しかし、だからこそ、娯楽の為に時間を割いてくれた相手には、その時間相応の刺激を、快楽を、娯楽を提供しなければならない。
 そう、痛感したのであった。

 ……先日、久々にラーメンのハズレを引いてしまったのだが、こんな考察に至れたのであれば、まあ、よしとしよう。次はねーぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?