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「障害」と「いじめ」について

小山田圭吾氏の東京五輪開会式の楽曲提供の退任の要因となった、彼が少年時代に障害のある同級生をいじめたことが問題視されている。

当時の雑誌の掲載内容に対する解説はいろいろな方がされているので、そこには触れないこととする。「障害者をいじめるなんてひどいな」と誰もが思うし私も思う。いじめそのものが良くないと言うことも誰もが思っていることである。では、対象が障害者である場合、それは、障害の無い人をいじめることと、どんな違いがあるのだろうか。

そんなことを考えていて、そもそも「障害」とはどういうことなのかを整理したいし、たくさんの人と共有したいと考えた。そうすることで、先述の疑問「障害の有無によるいじめの性質の違い」が見えてくるかも知れない。障害者をいじめるなんてひどいに決まってるし、そんなことは当たり前だ。しかし、当たり前過ぎて理由をうまく言葉にできない人が多いと思う。私もそうかも知れない。

前提として、この記事は小山田氏を擁護も否定もしない。そして、記事の内容には全く触れないことにする。

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⒈ そもそも、「障害」とは何なのか

Google日本語辞書によるとこうある。

正常な進行や活動の妨げとなるもの。

これは私が以前福祉施設で働いている時に上司に言われた言葉でもある。「障害」は、障害者ばかりのものではない。私たちの暮らしや人生にもそれらは常に存在する。

具体的にはどういうことだろうか。

❶ある時、私が部屋に入ろうとした時に鍵がかかっていた。ドアは開かない。この時、部屋に入りたい私の進行を妨げるものは「鍵がかかっているドア」である。

❷またある時、木の枝に鳥の巣を設置したいと思っても手が届かない。この時、私の活動を妨げるものは「木の枝の高さ」である。

多くの人は、それぞれの「障害」を取り除く方法を容易に思いつく。❶は鍵を手に入れれば良い。❷はハシゴをかければ良い。

このように、多くの場合「障害」には、それを取り除く「手段」がある。それが現実的に取り除けるかどうかは別として。

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⒉ 障害者にとっての「障害」とは

障害者と呼ばれる人たちの「障害」とはどんなものがあり、それを取り除くための「手段」には、どんな方法があるだろう。

車椅子の人が階段の前で困っている。進行を妨げるものとして「階段」がある。現代では、その障害を取り除くための配慮として、スロープやエレベーターがある場所も多い。「バリアフリー」はまさに障害を取り除く工夫や配慮のことである。

耳の聴こえない人が他人と話をする時に、「聴こえない」という状態が障害となる。手話やジェスチャー、筆談など、会話を実現するための様々な手段が想像できる。

2016年に施工された「障害者差別解消法」には、「社会的障壁を取り除くための合理的な配慮をすること」とある。「差別禁止法」ではなく「差別解消法」なのが素敵だと私は思う。社会のみんなで力を合わせて、誰もが暮らしやすいようにしようという思いや願いが込められていると感じる。

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⒊ コミュニケーションにおける障害について

障害者についてこんな風に感じたことはないだろうか。

・どう接して良いかわからない

あなたの学校に転校してきた子を教室で見かけたとする。新しい環境に馴染めるようにあなたは「おはよう!」と声をかける。その子は少し照れながら「おはよう」と言って微笑む。転校生の「環境に馴染んでいない」というある種の障害(緊張や不安など、通常のコミュニケーションを阻害する要因がある状態)を、「声をかける」という手段で少し解消することに成功した。

また別の転校生がいる。あなたは「おはよう」と声をかけて、その子の緊張を和らげようとする。

しかし、その子は一瞬だけあなたの顔を見て、目を逸らした。返事は無かった。返事が無ければ「失礼だな」って普通は思う。そういう人がいたら、それまで自分が当たり前に習得してきた「挨拶」「会話のキャッチボール」「マナー」などの、コミュニケーションのための手段が通用しない感じがして、「この子とどう接して良いのかわからない」となると思う。ショックを感じるかも知れない。

例えば自閉的な傾向がある人の場合、面識の無い人からの挨拶に対して、うまく返せないことがある。あなたの挨拶が友好的なものであったとしても。

大人たちは子どもに「挨拶をきちんとしなさい」「友達が困っていたら助けなさい」と教える。しかし、挨拶をした時に返事が無かった時や、友達に親切にしたのに反応が無かった時の対処法を、教えてくれる大人はあまりいない。

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⒋ どうしたら良いのか

どうしたら、この子と仲良くなれるだろうか。多分その方法は無限にあると思う。いろいろな声の掛け方をするとか、手紙を渡すとか、手を振ってみるとか、「わっ!」と大きな声でびっくりさせるとか。

自閉的な傾向のある人には、蛍光灯の光がついたり消えたりするように見えてしんどいとか、大きな声が苦手とか、吠えるタイミングが予測できないから犬が苦手とか、そういう「感覚」に関する特性(感覚障害)を持つ人がいるので、「わっ!」と大きな声でびっくりさせるのは、できればやめてほしい。雷が苦手な人はその子の気持ちに寄り添えるはずだ。

あなたはたぶん、そんなことはしないと思うが、子どもたちではどうだろうか。仲良くなるために「手段」を選ばない腕白な子どもたちが試しそうな悪戯ではないだろうか。

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⒌ 友情と差別

子どもでも大人でも、誰かと距離を縮めるための「手段」として、冗談やからかい、悪戯をしかけることがある。相手との距離を確かめる場合にも用いられる。

仲の良い友人に「バカ」とか「アホ」と言ったことの無い人はいるだろうか。これらは本来ダメな言葉だ。上司やお客さんや赤の他人には決して言わない失礼な言葉だ。でも、あなたが昔それを言った友人を思い出す時、どんな感情が蘇るだろうか。それは「親しみ」や「懐かしさ」と呼ばれるものではないだろうか。

障害のある友達に「バカ」とか「アホ」と言ってはいけないのだろう。大人の世界ではそれは分別と呼ばれている。では、その分別の未熟な子どもたちの世界で、障害のある友達に親しみを伝えるためにはどんな言葉が相応しいのだろう。「君のことが大切だ」とか「君といるとほっとする」とか、昭和の少女漫画のような言葉を伝えれば良いのだろうか。それはそれで楽しいけど。

あなたの周りの友達がお互いに「バカヤロー!」とか言い合っているのに、あなたにだけは「君は大切な友達だよ」と言ってきたら、寂しくないだろうか。孤独を感じないだろうか。気持ち悪くないだろうか。「差別するな!」「同じように扱え!」って思わないだろうか。

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⒍ 孤独について

場面を転校生に戻そう。

挨拶を返さないその転校生は、孤独や静けさを愛しているのかも知れない。しつこく声をかけてくるあなたに「うっせーな・ほっといてくれ」と心の中で思っているのかも知れない。

あなたがそんな心の声を聴いたなら、その子の意思を尊重して距離をとってあげたら良いと思う。最初に挨拶が返ってこなかった時点で他の友達はすぐにあきらめてしまった。あなたはよくがんばったと思う。

転校生に自分から挨拶をしたあなたは優しいと思う。なぜなら、人は誰しも1人では生きていけないからだ。孤独を愛する子がいても、その子は必ずどこかで誰かと何かしらの関わりを持たないと生きていけない。

孤独な誰かに向けられたあなたの優しさは、一方通行に終わることがある。孤独は孤独を生む。あなたがそれに耐えられなかった時、あなたの孤独は何に変わるのだろう。

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⒎ 子ども社会の「障害」

「いじめられるやつにも原因がある」と言ういじめる側の言い訳をあなたは聞いたことがあるだろう。私はこの言葉を頭ごなしに否定して「人をいじめるのに言い訳などするな」と言うのは、間違っていると思う。なぜなら、原因を分析しなければ「いじめ」を解決する「手段」が見つからないからだ。

孤独を愛する転校生と、あなたは結局友達にはなれなかった。あなたが物分かりの良い、優しい子どもであれば物語はここで終わる。しかし、「あいつのために僕はこんなにがんばったのに相手にしてもらえなかった」「悔しい」と思う子どもがいてもおかしくはないと私は思う。子どもは精神的に未熟なものだ。

あなたがかつて子ども時代に遭遇した「いじめ」の発端とは、いじめる子どもといじめられる子どもの間に生じたコミュニケーション上の「障害」ではなかっただろうか。

返事が無い・話が通じない・共通の話題が無い・空気が読めない・テンポが違う・自慢話をする・嘘をつく・偉そうにする・ゆずらない・しつこい、など。これら未成熟な子どもたちの世界に生じる友好的で円滑で楽しいコミュニケーションを阻害する様々な要因、つまり「障害」によるストレスやつらさは、大人にはなかなか理解されないのではないか。全ての子どもたちがそのストレスの中で、時には孤立や対立、スクールカーストなどのつらさや不安を味わいながら社会性を獲得していく。その成長過程で、あなたは苦痛を味わった方だったか。与えた方だったか。

「きらい」や「苦手」や「見下し」の感情が行動を伴って対象を傷つけることを「いじめ」と言うのだろう。「いじめ」は絶対に許されることでは無い。しかし、それが発生するプロセスにある様々な「障害」、即ち子どもだったあなたの「つらさ」に、周りの大人たちはどう対処しただろうか。あるいは、大人になったあなたはどう対処しているだろうか。

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⒏ 大人社会の「障害」

大人の社会にもコミュニケーション上の「障害」はつきまとう。はじめに言ったように「障害」は個人が持つものではなく、その人を取り巻く環境や社会に存在する。苦手な上司やお客さんはいないだろうか。あなたの趣味の世界に土足で踏み込みあなたの価値観を否定する人はいないか。

現代にはハラスメントという概念があり、会社のパワハラは2020年施工の「パワハラ防止法」によって罰則対象になっている。それでもパワハラと言うものを具体的な状況や言動として理解していない人や軽視する風土の企業や業界はたくさんある。法律はいつも、それを守れない人の存在を裏づける。ハラスメントは全ての大人の社会生活を脅かす共通の「障害」と言える。

ハラスメントは大人の世界の「いじめ」と言えるだろう。しかし、子どもたちの「いじめ」と「ハラスメント」を比較した時、国や組織の対応や法整備に大きな差があるように感じる。

子どもの社会性は、失敗や挫折の中で育っていくという側面があり、介入が難しい面もある。一方で、子どもたちの健康や生命や心を守る責任が、私たち大人や社会全体にある。しかし、親や教師のくだらない見栄や歪んだ権利意識が解決を阻むケースもある。いじめ加害者の親や教師からのハラスメントで被害者の子どもや親が追い詰められることもあるのではないか。大人社会の「障害」が子どもたちの人生を破壊する。許されないことだ。

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⒐ 「障害」特性を持つ子どもたち

冒頭で「障害の有無によるいじめの違い」について考えたいと述べたが、ここまで書いてきて、余計にわからなくなった。本質的な違いなど無いのかも知れない。誰だっていじめの加害者にも被害者にもなり得る。それが「いじめ」として発現する過程にある、コミュニケーション上の「障害」にどう対処するかが問題ではないかと思う。

偉大なる先人たちによって、一見健常に見える子どもたちの中にも、様々な「障害」「生きづらさ」を抱えた子どもたちがいることが明らかにされた。これらは「発達障害」と呼び、主にASD(自閉症スペクトラム)やLD(学習障害)やADHD(注意欠陥多動性障害)のことを指す。これらは「性格」などの抽象的な概念でも、親のしつけによる後天的な特性でもなく、先天的な脳機能による「障害」とされた。かつてこの「障害」を持つ子どもたちは、だんまり屋・変わり者・勉強が苦手・おっちょこちょい・うっかり者と呼ばれながら、健常の子たちの中で逞しく育っていたのだろう。

しかし、現代においても、これらの「障害」を抱えながら、診断を受ける機会が無いままに学校や会社や地域に溶け込んでいる人がたくさんいることを私は知っている。私自身も診断(検査)こそ受けていないがASDとADHD的な特性を持つひとりだからだ。

発達障害は、黒か白100か0ではなく、グレーなものだと認識している。健常者でも人見知りをするし、赤点を取る。忘れ物や失くし物もする。

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10. 「障害」を持つ私たち

私たちは不完全である。間違うし失敗をする。目標を達成するための「障害」といつも戦っている。「障害者」の対義語のように「健常者」と言う言葉があるが、思い上がっているのではないか。

例えば、「障害児」と呼ばれる子どもたちに「どう接して良いか分からない」と悩んで、びびっている弱い人間がいる。私たちのその「悩み」や「おそれ」、コミュニケーション不全の先にある「あきらめ」や「いじめ」、「排除」が私たち自身の「障害」ではなく、一体誰の「障害」だろうか。

こんな風に書くとひどく厳しいと思う。ごめんなさい。しかし、このコミュニケーション不全と言うものは、相手が障害者でもそうでなくても存在する。馬が合う人もいれば相性の良くない相手がいるし、ちょっとした行き違いで疎遠になったり、意固地になったりする。

これらのコミュニケーション上の「障害」を乗り越えるための、ある方法について考えたい。

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11. 共感する・相手に合わせる

コミュニケーションがうまく行かない相手に対して、一旦「あなたらしさ」は捨てる。あなたは相手のことをまるで王様やお姫様のように大切に扱うこと。ひたすら謙虚であること。

相手の話すペースに合わせる。相手が目を伏せるようなら伏せて、目を合わせるようなら合わせる。あまり話さない人ならあまり話さなくて良い。その沈黙があなたにとって気まずくてもガマンする。相手が気まずそうにしていたら、そっと穏やかな声で「良い天気ですね」とか「おいしそうなおはぎですね」とかを言うこと。「音楽を流しましょう」などと余計な気を回さなくても良いが、室温が相手にとって適温かどうかは気を配ること。質問されたら質問されたことを喜ぶ雰囲気を醸しながら手短に答えて、同じ質問を必ず相手に返すこと。その質問に対して相手が3時間話し込んでもしっかりと相槌を打って傾聴すること。話し終えたら「すごい!」と絶賛すること。

ここまでやってもうまくいかなければあきらめること。

相手に合わせるということは、本来こんなに大変なこと。あなたらしさや持ち味、個性なんてものは、それが通じない相手にとってあなたの自己満足の押し付けに過ぎない。

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12. 対等であること

あなたも相手も自分らしさを発揮して関わり合うことが本来のコミュニケーションだと思う。その上でうまく行かなければ仕方がないのかも知れない。人と人は本来、対等なのだから。

ただ、前項で書いた「謙虚さ」は必要。謙虚であること。相手の人格や個性を尊重すること。対等であるために、自らそれを実行すること。相手の態度が気に食わなければ相手を嫌っても良い。だけど他の人にそれを吹聴するようなことがあってはならない。あなただからうまく行かなかったのかも知れないという謙虚さを持つこと。相手が他の人と交流する機会を尊重し、水を差さないこと。誰かに悪口を言ったり無視したりしたら「対等」ではなくなる。

対等である状態を保持すること。いつかお互いに成長した時に距離が縮まるかも知れない。そのチャンスを自ら捨てないでほしい。

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13. 自らが示す

私たちを取り巻く「障害」や「いじめ」の原因になり得る「コミュニケーション上の障害」について、長々と書いた。これを読んだあなたにお願いがある。あなただけが社会から「いじめ」を無くすことができる。

前項で書いた「謙虚であること。相手の人格や個性を尊重すること。対等であるために、自らそれを実行すること。」だ。この長い長い文章は一貫して「あなた」と「私」、「私たち」の問題や社会的責任として書いてきた。私やあなたがこれを実行することで、子どもたちの良い社会モデルになる。自ら示すことをお願いしたい。

我が子を誰よりも愛してほめたら良い。その時に謙虚さを教えてほしい。周りの人や友達の人格を尊重して、決して仲間外れにしないように教えてほしい。親が他の子や家のことを見下すような発言をすることがあってはならない。その軽率さや傲慢さが子どもたちの社会的な成長の大きな「障害」となっている。社会全体の「障害」となっている。子どもだけではなく、後輩や地域の子どもたちでも良い。私たちはこの社会の主体なのだから、私たちの生き方そのものが社会の有り様なのだ。

社会や時代や他人のせいにするのはやめよう。自分自身に社会を変える責任があることを自覚して、私たちが成長していこう。

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14. 最後に

稚拙な文章に関わらず最後まで読んでくださりありがとう。

近年、炎上の対象となった人が過剰な抗議や誹謗中傷に晒されて、活動自粛に追い込まれたり、心身を病むようなことが起こっている。殴り返せない人間を寄ってたかって殴ることは、他人を傷つけることの言い訳にはならない。これは大きな社会的な「障害」である。私たちの豊かな暮らしを阻害し、子どもたちが暮らす未来の社会から夢や豊かさを奪っている。

改めて、「障害」は私たちを取り巻いていることを知ってほしい。健康な体を持っていても目の前の人を思いやれない人がいる。目が見えなくても、誰かの声を聴いて悲しみに気がつける人がいる。「障害」とは何か。それは私たちの進行や活動を妨げるもの。そして、私たちを取り巻く「障害」を取り除く「手段」「方法」を、私たちで考えて、作り、育てていかなければならない。

おすすめドラマ

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坂元裕二脚本のドラマ「それでも、生きてゆく」は、加害者家族と被害者家族を描いた名作。ある日突然、あなたの家族が誰かを殺めたとして、あなたがいつか投げたその石は、あなたに返ってくるのだろうか。

おすすめ映画

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障害者との交流を描いた映画では「レインマン」や「八日目」が有名だが、2010年スウェーデンの「シンプル・シモン」が大好き。アスペルガーの青年シモンは大好きな兄のために新しい恋人を探す。人と人が対等に向き合うことの難しさと美しさを描いた素敵な作品。

分かり合えやしないってことだけを分かり合うのさ

フリッパーズギターの曲「全ての言葉はさよなら」のフレーズである。

この言葉は私にとって人生の大切な舵となっている。今、この曲を聴くと少し安心する。

今回のことで胸を痛めた全ての人の雪が解けて、穏やかな春が訪れますように。

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