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「神の子とされる」ということ

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
                    (エペソ人への手紙1章5〜6節)

聖書新改訳2017


「親の心、子知らず」ということわざがあります。
このことわざは、愛情深い親の愛や苦労を子どもは知らずに勝手にふるまうという意味があります。
しかし、世の中はそういう愛情深い親ばかりではないこともまた事実です。

今日は「神の子とされる」というテーマですが、私たちはこの地上でどのような家庭、環境に育ったとしても、イエス・キリストによって愛と憐れみに富むまことの父の家に迎えられるということを告げています。

神の子とされるとは?

イエス・キリストを信じるキリスト者は「神の子」とされますが、このことは当たり前のことではありません。
なぜなら、私たちは生まれながらに神の「怒りの子」とも呼ばれているからです。
私たちは生まれながらに神の怒りの子であり、神の裁きと滅びを待つばかりのものでもあります。
本来私たちは神を父と呼ぶことなどできません。

父なる神の御前にはイエス・キリストだけが神のひとり子なのです。
その他の人々は、キリストにあって子とされ、神の家族に入れていただけるのです。

聖書は私たちが日常で使うことばを用いて素晴らしい救いを表そうとしています。その中の一つが「神の子とされる」ということです。

エペソ1:5にある「子」とは、「養子」という単語が当てられています。
神の救いとは、私たちを神の養子としてくださるということでもあります。

神の子とされるということは、神の子どもではなかった者が、子どもとして認められるということです。
それは、その人自身が変わったわけでもなければ、その人の気質や性格が良かったからでもありません。
正式な手続きによって、新しい身分、立場が社会的に与えられるということです。
養子縁組が成立すると、子どもとなった者は、その家族の子として法律上の権利と責任を持ちます。
そして時が来ると、新しい親の財産をも相続することになります。

そこで、子どもとされたものは、信頼をもって新しい親を「父」と呼べるようになるのです。

神の子とされるとういことは、決定的な客観的な措置でもあります。
それは、その人の気分によるものではありません。
変わることのない法的な根拠を持つものです。


神の子とするための方法、手段、動機


では、神はどのような方法、手段で子としてくださるのでしょうか?
エペソ1:5には「神は、みこころの良しとするところにしたがって、」とあります。

「みこころの良しとするところ」とは何なのでしょうか?
神が私たちを子としてくださるのは、ご自分のみこころが満足する方法によってなされるということです。

イザヤ書53:11には、御子イエスが「自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」とあります。
神は御子が苦しみを負うことを世界の基の据えられる前から決心されたのです。これこそが、神のみこころに従った、私たちを子とするための手段であったのです。それ以外の方法はありません。

神が私たちを子としてくださるということは、あるいは「選び」と言い換えても良いでしょう。
それは、神の心が気まぐれに赴くままに、人を子どもとして迎えるというものではありません。
選びは、くじ引きのような気まぐれなものではありません。あるいは私たちの気質が良いので選んだわけでもありません。選びは深遠な神の奥義です。

ただ、この選びのために神は愛するお一人子を私たちの代わりに十字架につかせたということを聖書は徹底して告げているのです。
これは、7節に述べられている「贖い」に関わることです。
贖いについては、次回。

神は私たちを養子として迎え入れるために、私たちが代々負っていた負債、すなわち「罪とその報い」を肩代わりされたのです。

それは一方的な愛によることなのです。


教会の賛美、礼拝

それゆえ、私たちは神がこのように私たちを神の子としてくださたったということを感謝し、この感謝を現そうとするのです。

神への賛美、感謝、礼拝はすべて神への愛の応答なのです。
それはただ讃美歌を歌うということでありません。
神の御前に清く生きることによって表されます。
賛美のことばは、清くされた者の心からの告白です。
ですから、行いの伴わない信仰は偽りであり、行いの伴わない賛美や祈りは偽善です。

ヨハネの手紙を開いてみましょう。

 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
                   (ヨハネの手紙第一 3章1〜3節)

聖書新改訳2017

神の子とされたものは、その子どもとしてふさわしく父の「恵みの栄光」をほめたたえるようになります。

神の子とされるということは、私たちにとってはじめは実感することが難しいことかもしれません。養子になったばかりのときは当然そのその家にもとからいたような気分はしないでしょう。なれないことばかりです。
信仰をいただいた初めは、頭で理解できてもまだ良くわからないことがあります。
しかし、やがて新しい生活が身についてくるともはや前のように振る舞うことはしません。
そして、最終的には神の実子であるイエス・キリストの姿に似せられていくのです。

それゆえ、今この世にあっても私たちは天の神を父とお呼びし、この父に子供として親孝行していくことができます。

神は世界の基が据えられる前から、ご自分の子どもたちを選び、イエス・キリスト
にあって子どもとして迎え入れてくださいました。
神の子どされる、また子とされた、という恵みを今日感謝しましょう。



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