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真の誇りをもとう

今回から、日曜礼拝ではエペソ人への手紙を講解説教していきます。
本書を学ぶことで、クリスチャンたち、そして教会は本来あたえられた姿を知り、目が開かれていきます。

エペソ人への手紙について

この手紙は、パウロの獄中書簡の中の一つです。
獄中書簡とは、パウロが捕らえられている時に獄中から書き送ったピレモン、エペソ、コロサイ、ピリピの4つの手紙のことです。
エペソ書が書かれたタイミングは、紀元60〜61年でちょうどローマ皇帝ネロの時代でした。

この手紙は小アジア地方の諸教会で回覧されたもので、その内容は普遍的なものです。地域や時代を超えて、現代のクリスチャンたちも読むべき手紙です。


クリスチャンとは何者か?

この手紙で使徒パウロは、送り先の教会の人々を「キリスト・イエスにある忠実な聖徒たち」と読んでいます。

1.聖徒

第一にクリスチャンは「聖徒」と呼ばれています。
聖徒とは、「聖なる人々」という意味があり、神さまの御前における称号であり、本質的な立場を指しています。

クリスチャンは、キリストを信じて義とされたとき、聖徒とされます。

聖徒というのは、クリスチャンの中でも特に優れた人やカトリック教会の聖人、聖者という人ではありません。
普通の、ただ信仰によって義とされた人です。

本来、「聖なる」という称号は神以外の何ものにも与えられるものではありません。
聖なるお方は神ただお一人です。
また、旧約聖書では神のために完全にこの世から分離され、取り除かれたものを指し示すものでもあります。

キリストを信じる者たちを聖徒というときには、聖なる神が、聖霊のみわざによってこの世から取り分け、ご自分のものとして、救いにあずかるものとされた人々という意味で、聖なる者、聖徒と呼ばれるのです。

人は、自分の力で聖くなることはできません。
それは、事実、聖徒と呼ばれる信者たちが、人々の見本として特別に優れていたわけではありません。
教会はいつの時代でも様々な問題を抱えていることが示されています。

それでもなお、聖徒と呼ばれるのはどうしてなのでしょうか?

2.忠実な者

第二に、クリスチャンたちは「忠実な者」と呼ばれています。

クリスチャンは本来、(神に)忠実な者です。

たまに「敬虔なクリスチャン」という表現をすることがありますが、この表現は厳密には間違っています。

クリスチャンは本来、敬虔であり、敬虔ではないクリスチャンはいないからです。

たまに謙遜で「私はだめなクリスチャンです」とか「敬虔とはほどとおい」ということがあるかもしれませんが、それは間違った謙遜です。

キリストを信じる者は、自分に欠けがあることは確かですが、キリストにあって、聖徒とされ、忠実な者とされたのです。

私たちは単に自分で神を信じているという者ではありません。
今や私たちのいのちそのものがキリストの中にあるのです。

ですから、自分を貶めるということは、キリストご自身を貶めることになるのです。


キリスト・イエスにある


このような聖さ、忠実さの源は「キリスト・イエス」にあります。

ローマ人への手紙でパウロは「キリスト・イエスにつくバプテスマ」(ローマ6:3)のことを語っています。

バプテスマとは、キリストと一つとなることのしるしであり、クリスチャンがキリストの体と呼ばれる教会において、結び合わされているという真理を表しています。

聖徒という立場、忠実さという生き方は、キリスト・イエスに由来しているのです。

イエスを信じるとは、イエスの死とともに死に、復活とともに新たないのちをいただくということです。

ですから、今や私たちはイエスの贖いのゆえに、生かされているのです。

もし、せっかく自分のいのちを掛けて助けた人が、せっかく生き延びた人生を大切にせず、自分はどうせだめな人間なんだと思っていたらがっかりするでしょう。

クリスチャンは今や霊的にキリストと一つとされ、キリストの命に生きる者です。これは決して神秘主義的なことではなく、非常に実践的な真理です。

エペソ書は、前半は3章までこの真理を教理的、神学的に教え、後半は4章から実践的に教えています。

クリスチャンは上辺の生き方ではなく、芯から変えられた者たちです。

心からの謙遜と忠実さをもって神の御心に従う者たちなのです。

このような生き方は、御霊によってなされるものです。
御霊によって変えられ、聖とされ、忠実に生きるのです。
自分の力ではなく、人に頼るのではなく、神がなさしめてくださいます。


恵みと平安あれ


これは祝福の祈りのことばです。
恵みと平安はイエス・キリストにあるすべての賜物の要約です。

恵みと平安は観念ではありません。
イエス・キリストそのものです。

恵みを退け、平和を失った者に、神は和解を与えてくださいました。
すなわち、神に逆らい、敵対していたもののために、キリストは愛を注ぎ、ご自身によって贖われたのです。

祝祷のことばは、それそのものにご利益があるわけではありません。

キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちに与えられたものです。

神は尊いひとり子の犠牲によって、私たちを神の御前に聖徒と呼び、神と和解させ平和を与えてくださったのです。

イエス・キリストを信じる者は、この方にあって正しい誇りを持ちたいと思います。

イエスに有る忠実な聖徒であることを誇りましょう。

それは、自分を誇って高慢になるという意味での誇りではありません。

イエスによって与えられた立場、聖い者とされたということを心に留めて生きることです。

これから、エペソ書を学ぶことで、それぞれに思い描いた架空のクリスチャン像や教会像が砕かれます。
私たちはクリスチャンの本来の姿、そして教会の本来の姿に目が開かれていきます。

このことで、私たちはキリスト・イエスにある本当の私に気づき、一致して主の教会を建てあげたいと願います。





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