受難週の一週間 キリストの十字架と復活について
多くのクリスチャンにとって、春は特別な季節です。
それは、受難節〜イースター〜ペンテコステとイエス・キリストの生涯の大切な足取りを記念する季節でもあるからです。
多くの人にとっては、中でも「イースター」が有名でしょうか。
今では、イースターエッグやイースターラビットのキャラクターが有名になっていますが、その意味を知ることは少ないのかもしれません。
イースターとは、日本語にすると「復活祭」。
この日、十字架に架けられたキリストが蘇られた、復活したことを記念するのです。
このイースターの前には「受難週」というものがあります。
復活を祝う前に、キリストは多くの苦しみを受けたことを知らなければ復活の意味は理解できません。
では、どうしてキリストは苦しみを受け、十字架に架けられなければならなかったのでしょうか?
この意味を探る前に、今回は受難週の一週間を聖書を紐解きながらたどっていきたいと思います。
キリスト受難の時期について
みなさご存知のキリストの十字架は神話ではありません。
歴史的な事実です。
聖書の記述を頼りにすると、それは紀元30年(キリストは33年の生涯であるが、紀元のカウントに誤差があるため)の春、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りの日であったことがわかります。
その一週間の足取りを見ていきましょう。
日曜日:棕櫚(しゅろ)の主日(2022年は4月10日)
(参照聖書箇所:マタイの福音書21:1~11, マルコの福音書11:1~11, ルカの福音書19:28~40, ヨハネの福音書12:12~19)
過ぎ越しの祭りがはじまるとき、イエスはエルサレムに入られた。
このとき、イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入っていかれた。
群衆は棕櫚の葉を道に敷いてイエスを迎えたことから「棕櫚の主日」と呼ばれる。
聖書の預言によれば、救い主、メシアはロバの子に乗ってやってくることが約束されていた。
キリストがエルサレムに来た目的は、全ての人の救いを成就するためであった。本当の救い主、メシアとして目的を果たすためである。
キリストを迎えた群衆も自分たちを救うメシアを求めた。
しかし、神がなそうとする救いは人々の考える救いとは違っていた。
群衆は力を持ってローマから選びの民を開放し、かつての栄光を取り戻すメシアの姿であった。
一方、キリストは軍馬ではなく、ロバの子に乗ってエルサレムに入城した。
その目的は、力の戦いのためではない。
自らを民の代表として、身代わりとなり、神の裁きをその身に負うためであった。
真の平和を与えるため、自らを「いけにえ」として捧げるためだったのである。
力が支配する人間のために、キリストは自らを犠牲とし、人に仕え、ご自身の全てを与えるためにこられた。
ここに神の救いがある。
月曜日:宮きよめ
(参照聖書箇所:マタイの福音書21:12~17, マルコの福音書11:15~19, ルカの福音書19:45~48, ヨハネの福音書2:13~22)
キリストは、神を礼拝するための宮である神殿に入るが、そこは人々の商売の場になっていた。この様子に心痛め、怒り、商売人たちを追い出された。
キリストは真実な神への礼拝を取り戻してくださる。
ここにもまた、旧約聖書の預言の成就を見ることができる。
世界でいちばん貧しい大統領として知られる、ホセ・ムヒカ氏が以前日本に来日したときのインタビューを思い出す。
彼は、浅草の仲見世を観光したのだが終始浮かない顔をしていた。
その後感想を聞かれこのように答えた。
参道文化を理解した上であえて疑問を投げかけていた。
宗教も、文化も、人々の心さえもビジネスにしてしまう人の姿がここにある。
それは、現代も昔も、地域も変わらない人の姿である。
キリストはこのような人の姿に悲しみ、怒り、あわれんだのである。
火曜日:イエスの嘆き
(参照聖書箇所:マタイの福音書21:18,19, 23:37~39, マルコの福音書11:12~14, ルカの福音書13:34, 35)
以上のような人々の姿にキリストは嘆かれた。
神が人間を見捨てたのではない、人間が神を退け、救いを捨てたのである。
神は私たちをどのようにご覧になっているだろうか?
水曜日:油注ぎ
(参照聖書箇所:マタイの福音書26:6~13, マルコの福音書14:3~9, ヨハネの福音書12:1~8)
イエスがベタニヤ村のシモンの家で食事をしていたとき、マリアがナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた。これはマリアの心からのささげものであると共に、イエスの埋葬の準備ともなった。
マリアがイエスに注ぎかけたナルドの香油は、当時貴重なものであり当時の労働者の約一年分の収入に相当した。
この行為について、イエスの弟子たちは「香油を無駄にした」、「貧しい人たちに施すべき」と避難した。
確かにそれは正論である。
しかし、マリアはイエスに対する感謝と愛を抑えることができなかったのである。
そして、それは結果的にイエスの埋葬の備えとなり、これに続くイエスの計画を前進させたのである。
神は、このような私たちの純粋な愛、信仰の行為を喜んでくださる。
クリスチャンが神を礼拝するのは、「そうしなければならない」という義務感からでもなければ、「救われるため」という取引のためでもない。
一方的な神の愛に対する愛の応答なのである。
木曜日:過ぎ越しの食事
(参照聖書箇所:マタイの福音書26:17~75, マルコの福音書14:12~72, ルカの福音書22:7~63, ヨハネの福音書13~17)
レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」で有名なシーンはこの過ぎ越しの食事の場面である。
イエスは弟子たちの足を洗われた後、用意された二階座敷でご自分の死について予告し、「聖餐式(パン裂き)」を制定された。
この後、イエスはゲッセマネの園で祈りの格闘をされ、ユダの裏切りによって当局者に捕らえられることになる。
「過ぎ越しの食事」とは、ユダヤ人たちが出エジプトの時、神がその言葉を信じて自分の家の鴨居に羊の血を塗った者は災いを通り過ぎた出来事を記念して行われた(出エジプト11~12章)。
イエスはこの過ぎ越しの出来事が現した神の救いをこれから成し遂げようとしていた。
もはやイエスは自ら「神の子羊」として血を流し、人々に下る神の怒りを満たそうとしたのである。
イエスはここで、弟子たちにこのように告げた。
このことばのとおり、教会は今も聖餐式(パン裂き)を行うことによって、イエス・キリストの十字架による救いを記念している。
この食事が現していることは、キリストの十字架である。
神の救いは「契約」によってもたらされるものである。
気まぐれや、人の熱い信仰心や行いに基づくのではない。
ただ十字架を信じるという信仰によって、人は神の救いを手にするのである。
それは、神が差し伸べた手を握り返すのに等しい。
幼い子どもが両親を信頼してその腕に身を任せるようだ。
神の契約は変わることがない。
その契約を受け入れる信仰である。
金曜日:受難日
(参照聖書箇所:マタイの福音書27:1~61, マルコの福音書15:1~47, ルカの福音書22:66~23:56, ヨハネ18:19~38)
イエスは鞭打たれ、人々から嘲られてカルバリ(ゴルゴタ=ドクロ)と呼ばれる丘に向かって十字架を背負って歩いた。
そこで当時の宗教者、祭司長、律法学者たちの手によって十字架に架けられた。
この十字架によって、神の救いのわざ、人類の贖いが完成して、人々と神の間を分けていた神殿の幕が真っ二つに裂けた。
イエスは無実の罪であったのに、一切言い訳をせず、戦うこともなく十字架に歩まれたのである。
この姿は、キリスト誕生の700年前に預言されたメシアの姿そのものである。
イエスは、十字架を前にしてもなお、自分を十字架につけようとする人々のために父なる神に祈られた。
そのとおりです。
私自身、イエスに対して自分が何をしてきたのかわからないでいる者でした。
しかし、イエスはこの私のためにも祈られたのです。
ここに神の愛が完全に現されたのです。
土曜日:ローマ兵墓を見張る
(参照聖書箇所:マタイの福音書27:62~66)
金曜日の夜、イエスは墓に葬られた。
当局者は弟子たちがイエスの死体を盗み、イエスが蘇ったと言いふらさないために墓にはローマの封印がされ、ローマ兵によって守られたのである。
ここまで厳重に守られたイエスの「死体」はどうなったのでしょうか?
日曜日:キリストの復活(イースター)
(参照聖書箇所:マタイの福音書28:1~8, マルコの福音書16:1~8, ルカの福音書24:1~10, ヨハネ20:1~10)
キリストは約束のとおりに墓から蘇られた!
キリストの復活は弟子たちのでっち上げではありません。
金曜日の出来事を思い出してください。
墓はローマ兵によって厳重に警備されていました。
また、キリストは傷ついた体を引きずってなんとか蘇生したのでも、弟子たちが幻を見たのでもありません。
事実、完全な肉体を伴って蘇られたのです。
聖書ははっきりとこのように記しています。
キリストの復活こそが、キリスト信仰の、そして人類の救いの要なのです。
後の教会はイエス・キリストの復活を記念誌て日曜日、週の初めの日に集まり始めたのです。それは現代も続く教会の信仰の表れでもあります。
使徒パウとはまさに命をかけてこのことを語り継げました。
また、信仰者たちも世々に渡ってこの信仰を告白します。
まとめ
以上、長い文章をお読みいただきありがとうございました。
聖書の神の姿、神がくださる救いについて少しご理解いただけましたら幸いです。
ぜひ、ご自分で実際に聖書を手にとってお読みくださいますことをおすすめいたします。
そして、お近くに教会がありましたら尋ねてみてください。
希望すれば喜んで聖書を学ぶことができます。
もちろん、私にまでお問い合わせいただけましたら紹介させていただきます。
聖書の神は「愛の神」です。
私たち一人ひとりをご存知で、無関心ではありません。
あなたを愛し、その愛ゆえにキリストは十字架に架かり、そして蘇られました。
この愛をあなたに知っていただきたいのです。