私といういきもの

 私といういきものは常々理屈っぽくて変に回りくどくてそれでいてうるさくてなんとも扱いづらい存在なのである。と自分自身常々思っている。

 と言うのもお気づきの人も多々いるかもしれないが、Twitter上で私はこれでもかと糞みたいな意味のない理想論、暴論を書き連ねて投稿したり、Twitterという140字では飽き足らずリプ欄に続けて書いたりとさながら茂○健一郎ばりのやっかましさ極まりない自論を平然と、恥ずかしみもなく書いていた。それが祟り、ひさしぶりに相互フォローの知り合い会う人会う人に「病んでる?」とか「ツイッターやばいよ(笑)」といわれるまでになってしまったのである。今思えばその根底にあるのは、誰かに自分の意見を発信することが承認欲求が満たされる一つの手段でもあり、同時に単純に文章を書くことが好きなのである。

 今回私がこのnoteをなぜ開設したか。それは先の話の続きではあるが、Twitter上では繋がってくれている沢山の人の迷惑にならず、「ヤバい奴」と認識されず、けれど、もし、ここまできて僕の思考を覗いてみたいコアな方にせめて相補的に満足のいくコンテンツ提供がこの場所なら叶うのではないかと思って開設した。私の中に埋まる脳みその末端にある思考を垂れ流しているだけのこの空間ではあるが、たまにでも覗いて少しでも共感したり、誰かの胸にひとかけらほどでいいから残ってくれることを願うばかりだ。

 ちなみになぜ「いきもの」かというと、このノートを書く上で前提として知っておいて欲しいのだが、私の思考はコロコロと変わる。勿論それは私に限ったことではないが、このノートを見るにあたりもし私が長く続けるようであれば、前までは「トマトが好き」といっていたのに明日には「トマトは嫌い」に変わっている可能性も十分にあるのだ。常に思考は変化していき、自分の主張も変わる。言わば私の思考、私自身はなまもの、活きのいいものなのだ。だから決して前のノートと違う事を言っているからと言って後ろ指を刺すことはしないでいただきたい。その意味を込めて「いきもの」と書いた。

以上、結局はただの自己満かもしれないがこれから時間がある時にでもつらつらと書いていこうと思う。

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