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或る鬱々たる一日 : 芥川との身勝手な会話

 友人から連絡があり、日本での学生時代の教師が亡くなったと聞いた。僕は不謹慎ながら一種の羨ましさを覚えた。そういった日は目覚めた瞬間に分かるものだ。目に映る全てのものが曇り濁って撓垂れている日は。日の昇らない群青色の早朝から闇に包まれるまでの長い長い一日、砂袋のようにずっしりと重い時間の潰し方を考えなければならない。こういった鬱々とした日が一週間に一度はやってくる。以前までは一ヶ月に一度であったが期間が狭まっているところを見ると僕はこちらの状態の方が正常であるのかもしれない。この憂鬱はある種夢のようなものである。僕がいくら気分を沈降させ一人の世界に引きこもっていたとしてそれまで積み上げていたはずの時間もそうではない時間も僕に気に留めることなく悠然と流れてゆくのである。であるから僕もまるで大丈夫だ、何も問題ないといった顔を時間に向けてやり過ごさなければいけないわけである。だが朝はとくに駄目だ、これから意識を手放すまでの時間があまりに長い。しかし学生の身、勉学には励まなければならないし、やれやれと首を振って机に向かう。離れたところにいるガール・フレンドは今日もどこかで友人と夜遊びに出かけているのだろう。僕と違い彼女は社交的で調和性があり、しかしどんな環境であろうと自分が身に纏う美意識や流儀を崩すことのない人間なのだ。朝食と呼べるものでもないが最低限の栄養摂取の時間には本を読むか映画を観ることに決めている。しかしこういった気分の際にはどれを観てよいかも分からない。仕方なしに無音のままにすっかり粉屑と化した古いパンを食う。学校へ行くまで約三時間。意識を手放したいと強く願っている癖に眠ることがめっぽう苦手だ。僕のような凡庸な人間、凡庸でいて何かを生み出したいという願いを携えている人間、それもまた身の丈に合わないと自覚しているような人間は、睡眠や食事という活動をしている時間に大切なことを見逃しているような思いがして罪悪感があるのだ。だから自己を手放さないまでも風船に括り付けてどこかへ飛ばしている状態を身体は目覚めているままに保ち活動したい。ガール・フレンドは僕は考えすぎなのよ、と言う。ありふれた台詞だがその通りだと納得せざるを得ない言葉である。ともあれこんな日こそ尻を叩くのをやめてしまってはそれこそ精神の命取りだ。秒刻みに活動しなければ真っ黒なその沼底に足を取られるのを目に見えている。僕はバッハとシューベルトを耳に勉強にとりかかることにした。勉強をするというのは心地が良い。例えそれが今心から欲する内容でなくとも、吸収しているうちは自分の堕落を感じずに済むからである。それに続けていれば学びの方から自分にとって最も必要とすべき事柄、言葉にできずとも望んでいた内容を運んでくることがある。コクトーやマン・レイに出会った時は芸術が持つ計り知れない崇高と深い愛情、人間が持つ想像力の無限性に畏怖したものだ。だがこんな日にはそんなときめく出会いなども訪れないと分かっている。訪れていたとしても神経が愚鈍になっている、そんな日なのである。僕は洗面所に向かい顔を洗い、ロボットのように歯磨きをした。一時間ほど茫漠とカメラの露光やらライト・メーターやらの教科書の部分を読んだところでこめかみに痛みを感じ顔をしかめた。病は気からというが生活習慣を振り返ってみれば病になるような原因しか転がっていない。乾燥スープと時々のパンという食事、睡眠薬と頭痛薬の常用、睡眠不足、運動不足、酒。しかしそれを今更どうのこうの改善しようと考えたところで一向に変化などしないのは当の本人がよく知っている。彼女から連絡も来ないまま僕は学校に向かう。以前より連絡も取らなくなったし会話も単調だ。それでも僕らの間には安定した平穏が流れている。そこに終焉が含まれているのか、それとも幸福が存在しているのか、僕はそこに関しては盲目でありたいと願っている。猜疑は恋愛関係にあっては最も不穏分子の一つだからである。全く、他人と物理的か精神的かどうかに関わらず一緒にいるというのは骨が折れるが必要な作業だ。残念ながらどんな人間でも他人と関わらないで人生を送るというのは難しいのだ。僕は素晴らしく魅力的なパートナーと時を過ごせているに違いない。彼女は人たらしでセンスが抜群に良く、彼女の前にあってはどんな悩みもちっぽけで霞ととなって消え、君がそう言うならと何とか前を向いて微笑むしか無いような道を選ばせる、そんな女なのだ。それを毎日のように考えながらも互いのエゴが優勢になる瞬間を眺めると僕は笑い転げたくて仕方なくなってしまう。残念ながらいくら睦言を交わし、愛を語りあった恋人同士とあっても結局は完璧に異なる人間同士なのである。であるから裏切りや自分の意に反する、信念にそぐわない言動があったとしても受容する勇気と寛容さを持つ、それがなくては恋愛など築けっこないのである。自分がいくら相手を想っているだとかいくらつぎ込んでいるだとかゆめゆめそんなことは思考してはいけない、やれやれ、僕はそんなことを考えつつ課題の本を読み終えて外へもう出てしまうことにする。自己。自我。実存。無我。どんなものにも因果関係があり、その関係にあるものは現実的であるという。また原因を特定することができないものは概念的に構築されなければならない非現実的なものであるという。哲学は己の道に反映してみなけれなこそ哲学ということができない。体感するまでその膨大な言葉も人の名前もただの記号にすぎない。僕はデニム・ジャケットから煙草を取り出してすぱすぱのんでは早々に捨ててしまった。こちらの良いところは育った街と比べて人が格段に少ないところだ。鉄の塊ばかりが排気ガスを撒き散らしながら体の横すれすれに走り去ってゆく。バスに乗ってみても音楽を聴いてさえいれば自分は完全な他人となって名前のつかぬ時間に溶ける。かすかに聞こえる言葉が第一言語であったなら多少はああどこかで聞いたことのあるような話だ、聞くに値しない話だ、ははあそんなこともあるもんだと気持の一部が反応するかもしれないが、僕の言語力の状態で脳をすっからかんにしてしまえば聞こえてくるそれは言語ではなくただの音に過ぎない。自分だけがこの言語を頭で繰り返しているという事実、完璧に違う顔、それらは僕を完全な他者とさせ、ここに存在する枠組みに参加する許可を与えない。それが自分の国を離れて生活する上で気に入っている部分でもある。完璧な他人、完璧な孤立は僕に不自然と言えるかもしれないが平穏をもたらした。その次に悲観主義や厭世主義とも違うある種の諦めをもたらした。この諦という漢字は古来真相を明らかにするという意味を持つという。苦しみの場所や由来を明らかにし、不幸に満ちた人生から離脱するのだ。諦の文字へ近づける日はどのくらい先になるのだろうか。僕が異国へやって来て学んだ大きなことは、いくら場所を変えたとて自分はどこにも行くことなんかできやしないということだった。どこで生活しようとてこの巡る意識と時間から解脱できぬ限り世界は狭く何も変わりやしないのだ。

 授業を受講している間は大して気分も悪くはない。教師が定めた時間に則って僕らは管理され考えるべきことも集中される。ここに座っている同年代の生徒たちは何を考えて朝の時間を過ごし今座っているのだろうか。またどのくらいの生徒が書くこと、へ大して執着と言える思いを抱いているのだろうか。彼女によく尋ねたものだ。今何を考えているのかと。あれこれに関してどう思うか、どんな意見を持っているのかと。僕は真剣を求め、誠実を求め、彼女の答えは時に真剣味が含まれ、時に思考が関与していないであろう「分からない」だった。それを不誠実と受け取ることはゆめゆめ愚かなことである。彼女と僕に流れる全ては異なるものであり、その言葉にどのくらいの真剣さが含まれるか、どのくらいの哀願が含まれるか、どのくらいの困憊が含まれるか、それを知っているのは本人のみであり、紋章として解読してくれ給えと相手に放ることこそ身勝手な行いなのだから。そうは言っても何時の日か、互いに読み取り合うことを止めた僕と彼女の異なる日本語が、互いにとってただの音とーー旋律に満たぬしがない音の連続と堕ちてしまう日が来るかもしれぬ、その可能性を思うと寂しいの一言に尽きる。彼女はどこで何をして過ごしているのだろうか。楽しくやってくれていれば良い。授業も終わりそのまま図書館へと向かった。僕はどこであれ家という場所をどうしても好かない。勉強もしなければならないし何か書物もしたいところだが、最初に一つ本を読むことにする。こういった気分の時に芥川を読むのは薬か毒か、それでも流麗な筆致の『歯車』は僕を小さな紙切れの底に広がる全く別の人間の精神へ没入させた。「かう云ふ彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはゐられなかった」僕は口の中で反復する。それは今まさにちっぽけな僕が悪餓鬼の表情を心に浮かべこの小説に抱く虚しい虚しいそのものである。日本語特有の美を凝らし、映像や音などに頼らず文体のみで、その言葉が持つ既存の意味や光景を超えて世界を展開してみせる、そんなものはもう現代人は決して書くことができないだろう。何を書いてみてもこの時代の、薄幸で脆弱でありながら虎に変わることなく、人間の命を全うした小説家たちが紡ぐ文章を超えることは無いであろう。「野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子も無い、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云ふ気になつてゐた」僕は欠落や喪失、孤独を感じるからものを書くのか、それともものを書くから孤独を感じるのか?否、孤独を悲しみ恐ることがまず誤りであろうか。寂寥を糧にペンを取り何者かと対話したさに胸のうちを書き綴るようではどん詰まりだろう。「しかし光のない暗もあるでせう」僕はここで辛くなり勉強に戻ることに決めた。出口の分からない迷路ならまだ良いものを、蟻地獄にはまってしまっては仕方がない。紀元前が終わったばかりのインドの文献には、ものごとに自我などは存在せず、固有の本質や実存というものは持たないとある。僕は彼等の言葉を借りるならば汚れた意識のままなのだろう。ああ、意識、自我、実存、意識、意識、意識…だって良し悪し関わらず因果を考慮することなく献身の心を持ったとして、そう作品の最後に認めた作家は自ら命を絶ったじゃないか。しかしこう死を不穏不幸なものと捉えたまま魅かれる頃は、仕様もない誤解の中に意識が渦巻いているということだろう。哲学、映像史、英米文学、日本文学、倫理、仏語、魯西亜語…幾ら膨大な情報と知識を毎日のように摂取しても、僕の中に巣食う歪んだ蜘蛛の巣は取っ払われることなく、不穏な影がなりを潜めてはすぐに首を擡げ、横たわる壁に穴を開ける方法は降ってきやしない。それは当たり前のことだ、僕は僕と一緒なのだから。

 斜陽が流れ帰路につこうと再びバスに乗り込んだ。桃色と橙に青紫がグラデーションを成す、華やか過ぎるくらいの空を見ているとかえりたいという言葉が浮かんでは消えてゆく。辺り一面に人が蔓延るあの猥雑な東京の街に、もう仁王などどこを刈り掘り返したとして現れやしない場所へ戻る意味など分からないのにかえりたいと言うのは何故だろう。帰りたい。還りたい。戻ったところでこう繰り返すのはとうに分かりきっている。この不満足と分不相応な貪欲が場所を食い潰してゆくのだ。電話をかけてきたガール・フレンドは全く変わらない調子で昨日は友達と飲みすぎちゃってね、そのまま朝まで一緒なのよと言う。××に会いたいわ、会って思いっきり普通の話がしたいのよ。だってあんたと話すのは、こうやって電話より直接の方が調子良いんですもの。難しい話は半々にさ。どこにいるのか丸っ切り分からないものだよ、色々と望みをいっぱいにしてきたことが自分でも気づかぬままに掌から無くなってゆくのは、これは諦めと呼ぶべきかそれとも奢りと言うべきか判別し難い。その言葉は喉に沈めて一言、毎日を過ごすというのは大変だ、と漏らした。彼女は何てことないという風に皆が皆大変なのよと言う。「僕の眠ってゐるうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」僕が不完全ながらもこの一文を本気で思っていることを君は想像できようか。僕が今不幸であるのは、歯車が幻燈でも見えないということ、いくら目を凝らせど映る世界はいたって普通で、レエン・コートの男も付け狙わず鼴鼠も地下で平穏無事、ただ鬱々と背後に構える不明瞭なそれを確かに感じながら、ここに這いつくばっているという事実なのだ。睡眠薬を四錠、彼女や勉学や書物のことなど全てこの渦巻きの外側へ行ってしまえばいいと祈りを込めて突っ伏した。頼むから、此処ではない何処かへ連れて行ってくれ。お願いだ、可笑しなことに耐えられないのだ僕は、歯車の狂いを確認し得る、それを許される前から耐えかねるのだ、その因果関係など分かっちゃいないのだ...

 ところが僕は千切りとなった暗闇の最中、今夜は一角獣の夢を見たいと願った。それは僕の内と外から湧き出る願いだとどこかで悟った。光ない暗から出るは角か毒牙か、知るのは明日のみであった。