でも、許してもらわなければ入れない

 欲しいものは、称賛ではなく承認。止まない雨はないなんて莫迦みたいな言説ではなくて、大丈夫だよと抱き締める腕。皆で頑張ればどうにかなるという根性論染みた激励なんて要らなくて、何の根拠もない盲目的な安堵だけを望んでいる。思い通りにいかないと嘆くより、自分自身でハンドリングできていると思える愚かさの方が、よほど健全で幸福だ。毒にも薬にもならないような思考を巡らせながら、煙を灰に入れてゆく。このどうしようもない時間が好きだった。生産から逆行してゆく行為だけが、自分で自分を許せる儀式のようだった。
 最後の一口を呑み、吸い殻を灰皿に入れ、ゆったりとした足取りで戻れば、もうすでに待ち合わせの相手がそこにいた。
「鴇葉(ときは)」
こちらが声を掛けるより早く、向こうが顔を上げた。呼ばれた名前に手を挙げて答えても、相手は無感情な顔をしてこちらを見つめたままだった。
「早く着いたから煙草吸ってたわ。鷺雨(ろう)が時間より前に来るなんて珍しいね。」
「爪がうまく塗れたから」
一見何の答えにもなっていない回答をしながら、鷺雨は指の爪を強く撫でた。艶を放つ指先は、白でムラなく塗られていて、光の加減によって、紫になったりピンクになったりしていた。
「良い色だね。」
「知ってる」
そう得意げに答えた瞳は、爪と同じに光って眩しかった。愛しい私の半身は、何もかもが美しく色づいていて、いつだってどろどろに溶けてしまいそうな甘い匂いがしていた。

 「今日もおいしそうだね。」
歩みを進めながら伝えれば、こちらを少しも見ない、投げやりな声が返ってきた。
「鴇葉はいつもまずそう」
そのどうでもよさそうな答えが、今日も私を安心させていた。
「昨日馬で勝ったから、なんか奢ってあげようか?」
「いらない」
「えー、遠慮しなくていいのに。」
「ばかじゃない」
 うんざりする鷺雨の声と、はしゃぐ私の声が、雑踏に紛れて溶けてゆく。それでも甘い香りはふわりふわりと漂って、私の胸をいっぱいにし続けていた。隣を見れば、興味なさげな白色の瞳が、眩しそうに細められていた。
「太陽が低くなってきたね。」
同じように目を細めながら呟けば、隣からの返答はなく、それは続きを促す無音だった。
「眩しいね。」
鷺雨はそれでも答えなかった。ただ私の声に耳を傾けて、息をしていた。そのゆったりとした呼吸の音が聞こえるようだった。
「えっと、あの、」
うまく言葉が出てこない、歯切れの悪い自分にいらいらした。
「あの、ね。どうしてか、口の中でずっと、血の味がしてるんだ。でも、煙草を吸っても消えなくて。一瞬だけ煙で消えたような気がするんだけど、またすぐ味が返ってきちゃって。ずうっとずうっと、血の味がしてるの。昨日も一昨日も、今も、」
そう続けた途端、後ろから大きな風が吹いて、木々がさざめいた。気づけば私は足を止めていて、女の子たちが高いはしゃぎ声をあげながら、横を通り過ぎていった。柔らかい匂いがして、私は自分がとんでもない嘘つきだと思った。

 「許してあげる」
乱れた髪を直していると、いつの間にか少しだけ先に進んでいた鷺雨が振り返って、こちらを見ていた。白い瞳は濡れたように光っていて、それはまるで視線を逸らさせない魔法のようだった。本当の私が、血の味の理由に気付いていることを、知っているのだ。
「僕が、許すよ」
もう一度、脳を揺らすように綺麗な声でそう言った。今度は前からぶわりと風が吹いて、さっき落ちた木の葉が舞った。甘い匂いを感じながら、強い風に、反射的に俯いて、目を瞑った。
「ずっと、許してあげるよ」
そっと瞼をあげれば、下げた視線の先には、白く綺麗な指先があった。愛おしく美しい私の半身。同じにはならなかった、私の半身。
「覚えてないんだ。」
「うん」
鷺雨が私の手を取って、指の先を撫でた。
「何をしたのか、記憶にないの。」
「うん」
「でも、明日も明後日も血の味がするって知ってるんだ。」
「うん」
「この先もずっと覚えていない。」
「うん」
「いつからかも覚えていなくて、でももう終わらない、ずっと続くって知ってる。」
「うん」
「一昨日から始まったような気がしているだけで、ほんとは違うのかもしれない。」
指先が小刻みに震えて、口の中の血の味が濃くなるようだった。鷺雨は、私の指に、柔らかく自身の指を絡めて、歩き出した。
「僕が代わりに全部覚えてる」
それは、私が覚えていないことに耐えきれなくなることを、初めから知っていたようだった。
「僕が、全部、許してあげる」

 日の光も十字架も銀も、私を殺さない。ただただ鷺雨だけが、私を生かして殺す神様だと、そう思った。そうして、この愛しい半身だけには寿命を与えた、どこかの誰かの気まぐれに、ただただ感謝した。
 「終わりまで全部、許してあげるよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?