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お遍路ウォーキング日記(169:五十六番泰山寺へ)

【2024年6月22日(土曜日) Day 169】

 今日やっと札所五十五番の南光坊を打った。四国八十八ヶ所の札所の中で「坊」で終わる札所はここだけである。

 南光坊の話は昨日の日記でも書いている。元は大三島にある大山積おおやまづみ(大山祇)神社にあった28坊のうちの8つが本土今治に移され、その内の一つに弘法が法楽を上げて札所五十五番となった。

 その坊の本家である大三島に向かうのが当時の遍路の習わしで札所五十三番圓明えんみょう寺から海路で大三島の大山積神社を参り、次に札所五十四番圓明寺(当時は延命寺ではなかった)そして五十五番南光坊と順に打っていたらしい。

 この南光坊を始めとする今治の八坊も天正の兵火で全て焼き払われてしまい、後に一坊だけ今治藩主の藤堂高虎が再興させたのが南光坊だった。高虎は南光坊を今治藩の祈祷所に制定し薬師堂を建立させた。そしてその扱いは大山積神社の別宮の別当寺とし、「日本總鎮守大山積大明神別當南光坊」と称していた。

 ここまでは一部昨日とも被る事だが明治以前は神仏習合が当然のことで四国八十八ヶ所の札所にも神社が幾つかあった。

 江戸時代には京の仁和寺とも強い繋がりがあり仁和寺の中本寺(今風に言えば地方支局)でもあって敷地も大きかったそうだ。

 こんな神社との繋がりの深い南光坊も明治の神仏分離の際には神社と切り離されてしまう。まず大三島の大山積神社にあった本地仏の大通智勝如来とその脇侍二体が大三島から南光坊へと移される。札所五十五番の本尊も神社ではなくなり別当寺だった南光坊へと移され分離独立する。神社が事実上札所ではなくなるため大三島の大山積神社へ遍路も寄らなくなり、巡礼のコースも変わっていった。

 その後今治空襲で金毘羅堂と大師堂以外はすべて焼失、また一時的には仁和寺との縁が切れるも平成の世になって復縁。また焼けた堂宇も徐々に再建され最後に大師堂を改修したのが平成に入ってからのこと。

 またこれまでの本尊、大通智勝如来の真言も現在は大日如来の真言が唱えられるようになった。これはほんの数年前からのことだ。

 そんなわけでこの南光坊は他の札所以上に複雑な事情と時代の宗教観の影響を受けて今に至る。

 行ってみるとあまり寺らしさを感じないかも知れないがそれでもこれだけの深い歴史がある。

 この札所のもう一つの特徴は納経所にあり、巡礼で来た人の顔を忘れない人がいて、我が家もわんこ連れと言うこともあって覚えてくださっていた。こう言う一種の不思議な能力を持つ人がいるお寺はこの寺と札所四十番観自在寺がとにかく印象深い。

 この寺の次の五十六番泰山寺は距離もそれ程遠くはなく、いつも灼熱の今治の町を突っ切る印象が深い■


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