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お遍路ウォーキング日記(218:六十八番神恵院、六十九番観音寺へ)

【2024年8月10日(土曜日) Day 218】

 病棟の中で歩き始めてから一日の歩数が格段に増えた。これまでは毎朝のウォーキングでしか歩数が稼げず、それも猛暑のせいでせいぜい歩けても三千歩台。危険なので他の外出は極力控える。こんな生活の中ではなかなか歩くこともできないが、入院中はエアコンの効いた病棟の中好きなだけ歩ける。

 現在は30分ウォーキングを1日3回と決めていてそれ以上は歩かないことにしている。過ぎたるは及ばざるが如し。そもそも今回の入院も激しい運動や高血圧が祟ったものだと思う。

今日打つことのできた札所六十七番大興寺について簡単に書くことにしよう。

 この寺はもともと8世紀に東大寺の末寺として建立された天台宗の寺だったらしい。(今の東大寺は華厳宗)後に失火で焼けてしまい嵯峨天皇が弘法に再興を勅願して熊野三所権現を鎮護するために復興する。

 その後は弘法と最澄の両方の教えを守り、様式も真言宗と天台宗の両方の様式が融合したちょっと異色の寺だった。当時は36もの僧堂をもち、24は真言宗、12は天台宗で双方の僧侶が混在していた。

 天正年間に本堂を残して焼失したが、他の札所と違って天正の兵火による焼失なのかどうかは定かではないという。

 16世紀に末坊のある現在地に移転をし、その場所の名前をとり小松尾寺と呼ばれていたが17世紀には再び消失、18世紀に再興をする。

 明治の神仏分離令により熊野三所権現は切り離されてしまうが、それまでは小松尾寺住職が別当を務めていた。

 平成に入ると正式名称である大興寺を名乗るがそれまでは専ら小松尾寺で通っていた。今でも納経をすませた後に頂く御本尊の御姿には小松尾寺と書かれている。またこの札所のご詠歌は、

植ゑ置きし小松尾寺を眺むれば
法の教への風ぞ吹きぬる

 と詠まれていて大興寺と言う名前よりも小松尾寺という呼び名が永年に渡り親しまれていたことがわかる。

 現在地はぐっと観音寺市内に入り明日はおそらく神恵院じんねいんと観音寺を打つ事が出来そうだ。また札所を打ったら詳しく書くつもりだが、札所六十八番神恵院と六十九番観音寺は同じ敷地の中にある。

 札所六十五番三角寺に向かうときに川之江(今は四国中央市)の町をちょっとかすめるがその時以来の都会にやって来た感じだ。香川の札所は基本こんな感じの都会を進む■

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