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お遍路ウォーキング日記(184:六十三番吉祥寺へ)

【2024年7月7日(日曜日) Day 184】

 小松(西条市小松町)の札所は六十一番から六十三番まで密集していて、昨日は札所六十一番香園寺を打ったので今日はその次の六十二番宝寿寺に手が届いた。このお寺は予讃線の伊予小松駅のすぐ横にある。

 今日打った宝寿寺について簡単に書こうと思う。宝寿寺は周囲のお寺とは1つ違う所がある。それはかつての一之宮との繋がりがあることだ。

 聖武天皇は諸国に一宮神社を建立させた、この小松にも大国主命おおくにぬしのみことを祭る社を建立させ、勅命により近くを流れる中山川のもう少し北のあたりに一之宮神社の別当寺を作った。それが宝寿寺の始まりである。つまり宝寿寺は神社からできた寺だ。この手の別当寺はほかにほ数ヶ寺ある。

 後に光明皇后(聖武天皇の后)の姿を模した十一面観世音菩薩の像を弘法が彫って安置し、宝寿寺と名づけられた。

 その後も伊予国一之宮(大三島の大山積神社、今現在の大山祇おおやまつみ神社)の別当寺であったが豊臣秀吉による戦火で焼失し、現在他の近く、今の伊予小松駅の北あたりに再興される。

 その後今度は一之宮神社が中山川の氾濫で宝寿寺のそばに移動。現在でも伊予小松駅の北側には一之宮神社がある。

 明治に入ると廃仏毀釈のために廃寺となるが、明治10年に予讃線の工事のために現在地に再興。現在に至っている。

 宝寿寺の縁起はそんなこともあり神社との繋がりが強く、別当寺の場所に神社そのものが移ってくるという経緯まである。

 しかし宝寿寺というとその後、四国霊場会との問題が有名だ。

 宝寿寺はかつてより納経時間や昼休みなどを巡り四国霊場会との確執があった。その為なのか境内の改修が何年経っても終わらなかったり、霊場会への会費が滞納されたりという話を聞いたことがある。

 2015年には霊場会を脱会し、8時からの納経時間、一時間の昼休みなどを導入するなど他の札所との足並みが揃っていないときがあった。実際に僕もたまたま昼に来たらお昼休み中で納経を受け付けてもらえず仕方がないので先に次の札所の吉祥寺を打ってすぐ近くにあるショッピングモールでうどんを食べて時間を潰した思い出がある。

 現在は札所八十六番志度寺が住職籍なども代行して霊場として通常営業ができているが、数年間は札所六十一番香園寺の駐車場に六十二番礼拝所まで設けられもはや宝寿寺は蚊帳の外という状態が数年間続いていた。

 そんな経緯を知らず、志度寺が最近荒れ始めたななどと考えていたがそれはそのような事情あってのことで、自分のところにも手が回らぬ状態にあったからなのかも知れないと考えるようになった。

 一時期は霊場会と宝寿寺は裁判沙汰になり、宝寿寺が勝訴をするまでになっていた。どのような事情があるのか詳細は知らないが、お寺の在り方よりもまずはお遍路さんに寄り添うような姿勢を見せてもらいたかったと思う。

 その後宝寿寺の主張は霊場会にも通ったのか、2024年春からはすべての納経所の納経時間が午前8時からとなってしまった。また納経費も値上がりをした。これもまた宝寿寺から始まったことだ。

 やり方は多少は乱暴だがこれまで納経費が変わらなかったことや朝の忙しい時間に納経の受付が朝の7時からだったのは確かに一部の札所には大きな負担だったのかもしれない。それと同時に一時間の納経時間の遅れは遍路にとってはかなりの痛手となることも間違いはない。

 そんなわけで一時期この宝寿寺は他の札所との歩調を合わせないわがままな札所という印象も受けたに違いないがその歴史、縁起はとても深いものであることは忘れてはならないし、このお寺のお陰で霊場会にも新たな考えが芽生えたのかも知れない。

 中々八十八も札所があれば宗派も考え方も異なってまとまりも難しいところだがそれでも遍路が安心して順礼できると言うことはそれだけでも有難いことなのだということを知るべきだろう■


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