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お遍路ウォーキング日記(262:八十七番長尾寺へ)

【2024年9月23日(月曜日祝日) Day 262】

 実生活の方でも今日は佐野厄除け大師に行ったりとお寺に触れた一日だった。

 そして適当に佐野の街中を歩いてそれなりの歩数にはなった。おかげで札所八十七番志度寺を打つことができた。

 志度痔について今日は簡単に書くことにする。志度は西に五剣山、東には小串岬の岬に挟まれた深い入江にあり、そこを元々は志度浦と読んでいた。

 7世紀推古天皇の時代、この志度浦に檜の霊木が流れ着いたのを見つけた海人族の凡園子おおしそのこがそれを引き上げて十一面観世音像を彫み精舎を建てて安置をしたのが始まりという。この史実が本当であれば志度寺は奈良の法隆寺のすぐ後に造られた事となり、四国霊場のなかでもかなり古い寺ということになる。

 その後藤原不比等ふじわらのふひとが妻の墓を建て、「死度しど道場」と呼んだことから寺号はやがて志度寺となったという。

 その後弘法も巡錫してこの地を訪れ、伽藍の修理に携わっている。

 室町の時代には四国管領だった細川家に寄進を受けて栄え、ひと頃には戦火で焼けるもその後も栄え続けていく。

 この寺の印象はまるで森のようと言われ、木々が生い茂る寺だが、今のような状態には15年ほど前から徐々になっていったと思っている。

 今でこそ夏場に行くと絶対に藪蚊に刺されるくらいの茂り方をしているが、以前はそれ程でもなかった。寺の中の手入れは行き届いていたと思う。

 今はそれでは手入れが行き届いていないのかと言えばそんなことはないのかも知れないが、昔に比べると森のようになった事は誰が見ても明らかだ。

 かつてこの寺の納経所は本堂と隣にある大師堂の間にあり、渡り廊下を歩いて中に入って行った。今では納経所は独立していて、簡単な巡礼用品なども扱っている。八十六番目の札所で今更巡礼用品もないかと思うかも知れないが、逆打ちをする人からはまだちょっと足りないものがあったなんていう場合にはとても都合の良い所にある。札所二番極楽寺にも巡礼用品があるのと同じなのかも知れない。

 この納経所ができたのと時ほぼ同じにしてお寺の様子が変わったような気がする。

 ただあの頃も今も個人的にはこのお寺が大好きで巡礼以外で高松に来た時でもこのお寺には足を運んでいる。なかなか木々が生い茂って見られない五重塔の神々しさなど、このお寺は見るだげではなくその後で感じるものが多いと思う。

 このお寺を打つと海には背を向けて内陸に進むような感じで次の札所八十七番長尾寺を目指す■

 

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