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書置き②

既往症

わたしは去年、贔屓のフットボールチームのゲームを20試合観に行き、日本代表戦とか個サポとか付き合いを入れたら30試合くらい観に行っている。
日帰り、夜行バスも辞さない。「推しは推せる時に推せ。」と呟きながら、財力と体力を天秤にかけギリギリの毎日を送っていた。無論、周りからは「正気か?」と言われ、自分でも「わからない(薄ら笑い)」と返事をする。そんな一年だった。「熱にうかされたよう」とは先人はうまいこと言ったもんだな。本当に熱に浮かされていたんだと思う。その熱にうかされ具合は、わたしの尊敬する方のありがたいお言葉で感じてほしい。
念のため言うが、尊敬する方は熱に浮かされているわけではなく超絶本気。フットボールへの愛で溢れている素晴らしい方である。
それからわたし自身、去年一年を後悔しているわけではない。めちゃくちゃ楽しかった。今年は去年ほどその活動に時間もお金もかけられず、大変に苦しい思いをしている。

写真はイメージです。

去年の6月の京都。
試合後、アウェイのゴール裏に集まったサポーターがキャプテンの名前をコールしていた。
そのコールに応えるように再びピッチに出てきたキャプテンと、コールし続けるサポーターの姿にわたしの胸は震えた。
名前は、もはや祈りとか希望とかそういうことを同じで、もはや救いなのだなと思った。

祈りとか希望とか救いとか

さすがにこの前置きからこの話に持っていくのは無理があることもわかっている。引用された尊敬する方には本当に申し訳ないが、どうしても書き置きたかったから、強引だけど書くことにする。
最近「名字で呼ぶの辞めてほしい。他人行儀だから」とお願いされることがあった。この人何言ってんのかな?わたしたち他人ですけど?最近は小学生でも「ちゃん付け」とか「君付け」で呼んだらダメっていわれてるんだよね?会社でもコンプライアンスでうるさいよ?大丈夫そ??って真剣に思った。
確かにその人をファーストネームで呼んでた事は過去あったけど、関係性が変わったんだから何もかもが全部元通りにはならないし、ずっとその関係を約束されるなんてことないんだよ。現にわたしもそういうのに最近心当たりあるよ…って。
わたしにとって名前は祈りとか希望とかと同義だから、そんな気安くはないんだよ。だからありったけのそれらの気持ちを込めて「タイミングはわたしが計ります」と真顔で答えた。お互い酷い顔をしていたと思う。
わたしは二度とファーストネームで呼ぶことはないだろうなって思いながら、グラスのなかで溶けてく氷をストローでつついてた。


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