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ドラマ:麒麟がくる

大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回、物議を醸した様子です。日本史上最大のミステリーとも言われる本能寺の変。明智光秀による織田信長殺しについては、有力な一次文献が少ないものの、以前よりは歴史研究が進み、いくつかの有力説が挙がっています。今回の大河ドラマでも、どの仮説も匂わすように、含みを持たせながらクライマックスに迫っていたように思います。

大河ドラマでクローズアップされた光秀の動機は、「(信長への)愛ゆえの殺し」であり、「正義に従うがゆえの殺し」であったように思います。光秀がドラマの主人公ですから、脚本家や原作者のセンスの見せ所であり、ドラマの醍醐味ではあります。逆に言えば、極端にドラマチックにされてしまうおそれもあります。

個人的には、とても感動しました。戦国物は血生臭く、そもそも人殺しをドラマで描いて美化するようなものでもないかもしれません。小林秀雄が言うように、「秀吉なんてドラマでは描けるような人物ではない」という言葉をいつも思い出します。

今回の光秀は、謎が多いだけに脚色がつけやすかったのかもしれませんし、現代社会に合うように、「平和(麒麟とは太平の世に現れる仮想の動物のこと)」という言葉が全面に出ていたように思います。

「我が敵は織田信長と申す」とクライマックスシーンでの光秀の穏やかな悟ったような表情が、役者の懐の深さを感じました。怒りや恨みから、鬼気迫る様子ではなく、むしろ、穏やかで仏のような顔をしていました。そこで思い出したのが、バガヴァッド・ギーターのアルジュナでした。
クリシュナはアルジュナに言います。

私を信じ、愛しきることによってのみ、私の真実の姿を知り、見て、私に入ることができる。BG 11:54

信長も、光秀が謀反を起こしたと知ると、潔く覚悟を決め、むしろ安心して幸せそうな表情を浮かべていたように見受けられました。

今日死ぬか、明日死ぬかわからない戦国の世を生き抜いた人々にしかわからない境地なのかもしれませんが、最終回での両者の悟りの様子が、ドラマや戦国物という枠組みを超えた、現代社会で生きる自分にも、メッセージとして伝わってきたように思います。

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