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深読み:座禅会

12、3年ぶりくらいにお寺で座禅をしました。夕方に1時間程度座りました。座禅堂の中は耳が痛くなるほどの静寂でした。
12、3年前は京都の伏見区にある曹洞宗のお寺での座禅会に参加していました。確か、宝福寺だったと思います。今回も曹洞宗のお寺です。当時は、仕事をしながら、博士論文を書いていたため、精神的にもかなり追い詰められており、気分転換というとあれですが、気持ちを整えるために通っていました。みんなそれぞれ逆境時の対処方法はあるそうですが、自分は座禅で乗り越えたのかもしれません。
ヨガのアーサナ(姿勢)と禅宗の只管打坐は、厳密には違うそうです。そういえば、インド哲学では「真我(アートマン)を想定するのに対して、大乗仏教では「真我」を想定していないけれども、「空」の概念を導入することで矛盾を乗り越えた、と三島由紀夫の小説で読んだ記憶があります。
俗世間の物事は互いに関係を持っており(依存しあっており)、物事は常に変化し続ける。人間の心(マインド)は常に変化する物事を追いかけて落ち着かない。また、「私」「私のもの」と考えることで、無常のものを不変のものとして認識しようとしてしまったり、真我でないものを真我として認識してしまったりと、過去の行動の記憶から影響を受けたりと、程度の差はあれど、それが普通の人間というものです。

しかし、真我(アートマン)を実現するためには、常日頃の修練が必要であり、世俗のものには固執してはならず、執着を打破して真実の自己(アートマン)を実現するためには、常日頃の修練が必要となる。すなわち、無我の境地というのは、「真我(アートマン)」がないという意味ではなく、むしろマインドの動きを止滅させる、という意味かと思います。マインドの動きを一点に集中させるための準備として、プラーナヤーマ、アーサナ、只管打坐、瞑想、熟考といった行為(プロセス)があるのかと考えています。あくまで自論ですが。

それにしても座禅中はとても心地がいいものですね。終わった後も、始める前も、至福の時です。

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