我が子がいじめにあっていると知った日

こんにちは。
長野県の北アルプス地域で森のようちえん山の子らーらの代表をしているほたるです。


タイトルが少々過激なのですが…

「いじめ」というと壮絶なものを想像される方も多いかと思いますが、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
とされています。
文部科学省いじめの問題に対する施策1(2)いじめの定義より


どんなに小さな事でも、相手が苦痛を感じたら
いじめなのです。


我が家の長男くんは、発達障害の傾向があって(ちなみにASDとADHD)、彼の特性を理解している人となら障害にはなりませんが、

現在の学校の中、学級の中では、コミュニケーションに障害を感じることもあるかなと思います。


なので、同年齢の子ども同士、そのままの状態であれば、お友達とぶつかる事も度々あるかもしれないな〜と覚悟はしていました。

でもそれは別に悲観的なものではなくて、どんなにお友達とぶつかっても大丈夫。私はあなたの味方だよ。少しずつ前に進めるよう支えになるからね。という感じの前向きのもの。


実際に学校に通ってみると、クラスメイトというよりはむしろ、先生とトラブルになる事の方が多かったかな。

俺はこれをやりたいのに先生にダメって言われる。みたいな。

少しずつ紐解いてみると、先生はダメとは言っていなかったけれど、彼はそう受け取ってしまった、という事も多い。


で、

でででーん!

今回は、

これまでのソレとは様子が違っていて。


2対1だったり、3対1だったり、構図は完全にいじめの構図です。喧嘩では無い。

しかも、「だからもう〇〇には行きたくない。」と、精神的に苦痛を感じていて、学校生活に影響も出ている。


うん。いじめだね。

まあよくあると言えば、よくあるような話ではある。(よくあったら嫌なのだけど)


で、その時に私は、やっぱり大切な我が子だから、悲しい気持ちになると思っていたのです。

でも、実際には、ならなかった。


その時に考えたのは、

相手の子はもしかしたら、特性として、相手の気持ちがわからないというような所があるのかもしれない。

その子たちは、多大なストレスを抱えている可能性がある。

空気を読めない長男くんを排除しようとするのは「良い子」のする「良い行動」だと信じているかもしれない。

ということでした。

この3つ目の事について思うところがあって。


例えば、

授業の始業と終業時に毎回「気をつけ!」と日直(こども)が号令をかけるとする。

様々な理由があって、日直の(大人のかな?)思う通りの気をつけがピシッとできない子がいるとする。

日直が注意する。

5時間授業だったら一日に最大10回クラスメイトの前で子ども同士が注意し合う訳です。


そんな風に過ごしていたら、みんなと同じように同じことが出来ないダメなやつ、というレッテルを貼られても何も不思議はありません。


大人の側も、「正しく」させようとする子は「良い子」だと思ってしまいがちではないですか?


偏った価値観を一方的に相手に押し付けるのは、自粛警察とか、正義中毒とか、問題視されたりしていますが、

教育の本質である
「自由の相互承認」というのとは正反対のところにあるように感じます。
(自由の相互承認の感度を育むことについては、苫野一徳さんの著書をぜひご一読下さい。検索すれば記事も出てきますし、youtubeなどでも素晴らしい動画が沢山あります。)


と、まあ、このような感じで私の思いを夫に伝えてみたところ…

そんなのは学級経営でどうにでもなる

と。


いや、まあ、薄々感じてはいましたけどね…。


しかもトドメの赤坂先生の「いじめに強い学級経営」(第6回のタイトル)


ちーーーん。


あ!
誤解しないで下さい!
担任の先生の力不足だと言いたい訳では決してありません!!!

夫は小学校の先生ですが、初任校がとても恵まれた環境にありました。もちろんそれだけではなく、彼のポテンシャルの高さや、努力し続けている姿や、感度高く志高く生活の全てが教員としての彼のあり方に繋がっているところはプロフェッショナルだと感心するばかりですが、そうでない先生がダメということではありません。


ただ、保護者としてはやっぱり、

子ども同士が注意し合う姿

ではなくて

お互いに認め合って、許し合える姿

を見たいのです。


学校に全て任せるな!と言われそうですが、

でも実際のところ、親と居る時間よりも、学級に居る時間の方が長いのですよ。


………学校と家庭とが、協力してこどもたちの育ちを支えるって、具体的にどうしたら良いのでしょうね。

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