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ビジネスが苦手な人間(お金という価値基準について)

お久しぶりなnoteです。

ここ一年は、色々動いていたのでなんだか頭も体も心もよく働いて、家に帰ると急激に動いていた分の疲れを流そうと休息に入る、という感じの繰り返しだった気がする。

山梨→千葉→愛媛→千葉→能登→千葉→福岡→千葉

自分が留まり続けられないことは知っているけど、意外と動き続けることもできない自分に、体力がなくなったなあと感じたり、仕事らしい仕事をすると、逆にまだまだやれるんだなと思うこともあったり。

一昨年開業してから1年は走り続けられたのだけど、去年の6月にぶどう農家さんのお手伝いバイトをして帰ってきた夏の間から、自分(個人)の仕事へのやる気が失われていったように思う。
このやる気というのは、仕事内容へのやる気、というよりも、ビジネスとしてのやる気だ。

ヨガも好きだし、数秘も好きだし、リラクゼーションも好きだ。
ヨガを学ぶことも、数秘について学ぶことも、技術を学ぶことも好きだ。
ヨガの話をすることも、数字の話をすることも、施術をすることも好きだ。

ただ、それをビジネスにすることが、私は苦手らしい。

ビジネスにしたくない、というわけではない。
好きなことをして生活できるなら、それはとても幸せなことだと思う。
でも私はきっと自分を売り込むことが苦手で、私のしていることを面白いと思ってくれて「やって」と言った人に対し、「じゃあいくらです」と言うことができない。

仕事にしているのだから、料金が発生するということは皆わかっているはず。
しかし、「いくら」と言わずに「OK」と言ってそのサービスを始めた場合、相手によって価値付けがされる。
少しの割引もなく正規の金額を聞いて支払ってくれる人もいれば、その人が決めた金額になる場合もあるし、相手によっては無料提供になってしまうこともある。

お金というのは、現在の社会の価値基準でしかない。と私は思っている。
それも、人によってお金という単位への価値感覚は様々だ。
1万円を高いと感じる人もいれば、安いと感じる人もいる。
それはお金をたくさん持っている、持っていないというのはもちろんだけど、それだけではない。
自分が抱えている人間関係(家族がいるとかいないとか)や所有しているもの(家や車や固定資産等)、将来への備蓄だったり不安のあるなしも関わってくるかもしれない。
例えたくさん稼いでいたとしても、1万円を高いと感じる人もいるということだ。

だから、正規の金額を払わなかった人も、私のサービスに価値を感じなかったわけではないことはわかっている。
払いたくても払えない、という人もいる。
私はそういう人たちに、お金がないからといって受けれない、という結果にしたくなかったのだ。
だから、受けれないという選択を無くすためにまず受けてもらい、それから相手に委ねていた。

しかし、人はそれぞれの価値基準も持っている。
例えば1万円の服を平気で買う人でも、ヨガには1万円を出せないという人は多いだろう。
毎月1,000円外国の子どもに寄付することは難しいけれど、毎週スタバに行くことができる人は多い。
何がいいとか悪いとかではない。私たちは人それぞれの価値基準を持っている、というだけだ。

けれど、ビジネスをするなら、自分のサービスにお金を支払う価値を感じてもらう必要があるし、感じてくれた人に受けてもらえばいい。
受けたい、でもお金は払いたくない。それを良しとしていては、ビジネスは成り立たない。個人事業主なら生活できない。
わかっている。
それでも、私のようにビジネスが苦手な人間や、サービス精神が旺盛すぎる人、強く言えない人なんかは、うまくやり過ごす人やさりげなく利用しようとする人、もしくは感覚の鈍い人間に搾取されてしまう、かもしれない。

今回私は、そのどれにも当てはまらない相手に、サービスを無料提供しそうになった。
初めは正直、搾取かもしれないと一瞬感じたが、結果搾取ではなく、ただの感覚のズレだった。

でも、ここに記しておこうと思ったのは、思いを感じきることの大切さと、正直な思いを言葉にすることの大切さの両方を、この出来事から学んだからだ。


次回、感情を感じきることとサティヤ(真実・正直さ・嘘をつかないこと)の大切さ、その実践について、この出来事とともに綴ります。

(いつもながら書き始めると前置きも長くなり、誰が読むんかというくらい書いてしまう。。)

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