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2つのベクトル

3月の沖縄の柔らかい陽光が肌を照らす。そんな今日、祖父が息を引き取った。91年の大往生であった。母子家庭から身を立て、自らの稼ぎで大学に進学し市議会議員も務めた、バイタリティーの塊ともいえるような人間としてはあまりにもあっけない結末であった。彼の死をきっかけに、私はとあることを強く再実感させられた。ゆっくりと、しかし確実に、人々には”衰え”がやってくる、ということである。

帰省した時の気づき

これは初めて感じたことではない。昨春に上京して以来、4か月ぶりとなった昨夏の帰省。この時にも、である。白髪の増えた父、記憶が曖昧になった祖母、親戚の死。もちろん、私が沖縄にいた時にもその種の変化というものは勿論あったはずである。しかし、人間という生物は、連続的な変化を認識することが難しいらしく、強く意識することもなかった。久しぶりにその姿を目にした時、その変化は明瞭なものとして私の眼前に飛び込んできた。
人間の変化だけではない。街並みもそうだ。通っていた高校の周辺の風景も随分と変わっていた。よく利用していたコンビニは閉店していたし、よく知ったる施設が取り壊され、更地となっていた。

高校を卒業するまで、私の意識には、ある一方向の変化しか存在しなかった。日々、心身は成長していく。折に触れて、その成長を実感する機会があった。ステージを重ねて成長していく親しい人たち、そして私自身。そんな光景を目の当たりにし続けていた。忍び寄っていたはずのもう一つのベクトル。それを意識することはなかった。中学時代に曾祖母の死に直面したことはあった。父の入院もあった。しかしそれは私にとって悲しいイベントに過ぎなかった。なおも前方向のベクトルしか、私には知覚できなかったのだ。

それが変わった。”衰え”という言葉が、明確なイメージとともに私の前に現れた。そして、祖父の死はその意識を強化した。認知症の進行により余生を養護老人ホームで過ごしており、コロナ禍で会うことが叶わなかった祖父。その最期の姿は、私の記憶からはかけ離れた姿であった。
常にそばにいるとわからない連続的な変化。それを断続的に観察したとき、その変化はより明瞭なものとして意識の中に引っかかるのであろう。そんな考えが、おそらく2年ぶりに対面を果たした、安らかに眠る祖父のそばで浮かんだ。

矛盾する2方向

確実に衰えていく風景がある。それを目にしながら、明確に意識しながら、私はまだ成長していくのであろう。意識の中に、矛盾するふたつのベクトルを抱えなければならなくなった訳だ。これが何を意味するのか、私にはまだ解らない。しかし、何か重要なことを祖父はその身をもって教えてくれたような気がする。


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