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《野球短編探偵小説》  左翼外野席(レフトスタンド) カラス&マーロウの新冒険・1 歳池若夫・作

 感染症禍がようやく終息し、世の中がなんとか落ち着いた頃。
 ポツポツと雨が落ちて来る五月の金曜日の夕刻——
 都内某駅の西口改札を出た所は、今、人・人・人で大混雑である。
 男川正朗(おがわまさろう)はちょっと気取ったポーズで空を見上げ、傘をさそうかさすまいか思案していた。
 初夏の季節だというのに、無理して着込んだトレンチコートの襟を立て、あみだに被ったソフト帽の下で苦虫を噛み潰した顔をしている。
 ……と、いきなり背中をどつかれた。
「よっ! 自虐と自嘲の日々を邁進するアミーゴ・マーロウ君。相変わらず全然似合わへん自爆ファッションでんな。完全に浮いとるでぇ」
 尖った二等辺三角形の怪鳥の目が男川の顔を覗き込んだ。
「もうっ、カラス先輩……じゃなくて高野山次郎先生ったら、僕の本業が何だかご存じでしょう? 僕は今バリバリ売り出し中の気鋭のミステリー作家なんですからね。今度出す本のカバーに載せる『著者近影』向けに、ナイスなハードボイルド・ファッションでキメたっていいでしょうがッ!」
「あかん! コスプレはコミケ行ってやれ。アディオス」
 永い友人で業界の腐れ縁の先輩でもあるそんな相棒氏の格好はというと、本日は白地に黒の縦縞シャツにラメ入りの金色イタリアン・ジャケット(どうせバッタモン)、お尻の所で猛虎のクロスステッチが咆哮するニッカーボッカーパンツといったいでたち。
 ちなみに、この還暦過ぎのおっちゃんは、何ヶ月か前からバリバリのドレッドヘアーを頭に載せている。
「派手だなー。相変わらずだ。いつもタコス風味のタコヤキ食べてテキーラを熱燗にして飲むデンガナ・セニョールって、こういう感性なのかな?」
「やかまし。カラスの勝手じゃい! あ、せっかくのヴアレンテイノの特注の服が濡れてまうがな。さっさと傘をささんかい」
 暑苦しいトレンチコートとナンチャッテ・ラスタマンの変なおっさんズ・カップルは、仲良く相合傘をしながら、駅から続くアーチ型陸橋、人で埋まった連絡通路を歩き始めた。
「カラス……高野山センセ、入場チケット持ってんでしょうね」
「いんや、そんなもん持ってへんよ」
「どうすんですかぁ。今からじゃ当日券なんかありませんよ」
「まあ、ワシにまかせとき」
 今やバリンバリンで売れ残り中の官能漫画家・高野山次郎先生こと本名烏谷由伸、通称カラスのおっちゃんは力強く胸を叩き、からからと高らかに鳴くのだった。

 連絡通路の陸橋を渡り終え、場外馬券売り場の横を通り過ぎ、天高くそびえるドームホテルの裏側まで来ると、混雑はさらに激しくなった。
 人流に逆らって、誰かれ構わず声を掛けまくってる輩どもがいる。
 道行く人々は連中を避けるようにかわしているが、タテジマシャツに金色ジャケットのラスタマンは逆にずんずん近寄って行く。
「おい、そこの怪しげなアミーゴの兄ちゃんよ、レフトの外野席はないかいな? 2枚連番がええな。そんで、できたら、選手の顔や雄姿を近くで拝めるフェンス際のを欲しいんやがの」
 声を掛けた相手は、エンジェルス・マークの赤い野球帽を目深に被って耳と鼻と下唇にピアスをぶら下げた若い男。
「なんや、えらいド派手なおっさんやの。ふん。オレっちと同じ関西の人間かい。ふふん。レフトの外野席が欲しいとな。ちょっと待っててや」
 男はごそごそポケットをまさぐりだした。
「おっ、ナイスタイミングで2枚あったで。レフトのポール際ん席やけどな。おっさん、今日は運がええな」
 男はチケットを差し出した。「2枚連番で、ほな、4万円や」
 ドレッドヘアーの関西弁おじさんは即座に言い返した。
「アホ言え。2枚でせいぜい1万じゃい」
「なんやと! ジジイ、今なんて抜かしよったん……」
 エンジェルス野球帽の庇がはね上がった。強面の鼻ピアスが揺れた。
「あれれっ!」男は目を大きく見開く。
「ア、アンタは……大阪のミナミにあったカラスの本屋のおっちゃん??」
「ようやっと気付きよったか。このトーヘンボクがぁ」
 金ぴかジャケットの烏谷由伸氏は胸を張り、ピアス男の手からチケットをひったくった。
「おどれは、西の甲子園球場だけでなく、東のこっちの方でも悪さしてるとワシは人づてに聞いとったがの。おい、顔中にリベット打ってる鉄面皮の兄ちゃんよ、ジブンは昔ハナ垂れ小僧だった頃に、ミナミにあったワシの書店でようマンガの万引きやりよったな。おかげで、その後ワシの店はツブれてもうたがな。どうしてくれんのや。あん時のツケを今こそ払ってもらうで」
 サイフから真っさらの渋沢栄一翁ご印影のお札を一枚出して、くしゃくしゃに丸めた。
「あん時の落とし前つけて、今回のチケット代ツーペーにしろとは言わへん。せめて少しくらいオマケせい。ほれ、金1万両や。出たばかりの新札で払うたる。ええな、これで」
 有無を言わせず、男のポケットに突っ込んだ。
 ピアス男は、なめくじみたいにしおしおと小さくなる。
「そ、そんな、すんまへん。悪ガキやったワテを警察に突き出さんでいつも見逃してくれはったあの心優しい大阪のカラスの本屋の店長様とも知らへんで。えらいすんまへん。へい、お代は結構でおま。どんぞ、このままチケットを受け取って下さりませ」
「そっかい。そんじゃ遠慮なくいただくで。グラシアス。おおきに」
 元書店経営者で今は漫画クリエイターに立身出世(?)した強気のデンガナ・オヤジは、横で唖然と口を開けたままの後輩の相棒に極上のドヤ顔を向けた。
「ほな、行くで! マーロウ。何ボケっとしてんねん。球場入り口はどこや。何! 3番の『ミスターG・ゲート』やと? なんやねん、ワシ、えらい気に入らんのう……」

 午後6時ちょっと前に、気取ったアクセントの場内アナウンスがあり、一塁側ベンチからジヤイアンツの選手が一人づつ駆け足で出て来た。彼らがフィールドの各守備位置に就く度に、ドーム球場の白い高い天井に大歓声がこだました。
 だが、男川正朗と烏谷由伸カラス先輩のいるレフトスタンド周辺はとても静かである。鳴り物を持った大応援団も、所定の位置で出番を待っている。
 やがて、男川たちの周囲一帯が一斉に沸く時が来た。
 バッターボックスに、伝統の一戦の試合の最初の打者が立ったのだ。
「うおおお! 行けぇぇぇ! がおぉおお! ぐわおおぉお!」
 黄金に輝く虎が吠える。
 トレンチコートを着た暑苦しい私立探偵もどきも、負けじと叫ぶ。
「頑張れぇぇ。かっ飛ばせぇ! カケブぅぅぅ……」
 頭を引っぱたかれてしまった。
「い、痛っ! 何すんですか」
「あんぽんたん。何ゆうてんねん。おどれは野球を知らへんのかい。カケブなんて選手は、もうとっくの昔の紀元前にタイガーズを引退しとるわい。今は関西の小中学校の歴史の教科書にアーカイブとして載ってるわ」
「あれ、そうなんでしたっけ……」
「おぬし、ホンマにタイガーズファンかいな?」
 怪鳥の三白眼がトレンチ男の顔を覗き込む。
 嘘をつくのが下手なヘタレ探偵小説作家は項垂れ、頭をかいた。
「すみません。黙ってましたけど、実は、僕は子供の頃から生粋のジヤイアンツファンなんです。大リーグボール何とかギブスを体に装着してボールを投げてた世代です。目の中でメラメラ炎が燃えて、オトーサンに卓袱台をひっくり返されて育った少年の成れの果てなんであります」
 素直にカミングアウトしてしまった。
 怖い猛虎パンチがまた飛んで来るかと覚悟したが、意外や、ドレッドヘアーの紳士は黙ったままである。
「すみませんでした。カラス先輩が吐き出す怒涛の気合いの前で、今まで言い出せずにおりました」
 再度深々と頭を下げる。
 関西出身のメデューサ頭の野獣男は、咆哮せずに淡々と口を動かすのだった。
「……ええわ。それも人生や。思想信条、表現の自由と贔屓の野球チームの自由は、日本国憲法でちゃんと保障されとるわい。そや、たかが野球や。構へん。何でも構へん……でもな」
 鋭角に尖った虎の目がギラリと光を放つ。
「でもな、今ここにこうして座ってる限り、ワシに従ってもらうで。ゲームセットになるまでは。そや、なんだかんだで、東京ドームのこの場所、左翼外野席という所はな、日本列島の東半分にいるタイガーズファンの聖域、サン・クチュアリなんやからの」

 てなわけで、ドーム球場内左半分の観客が気合い漲らせる中、ちりちりお下げ髪を振り乱した黄金の官能漫画家先生が吼えまくる。
「打てぇ! 行けぇ! 腹黒いウサギさんチームなんぞ、どいつもこいつも噛み潰したれーッッ!」
 猛虎の咆哮に気圧されたか、HTマークヘルメットのトップバッターが打った何でもないボテボテゴロを、Gマーク帽を被ったサードの若造がヘロヘロとトンネルしてしまった。
「うぎゃぉぅ! やった! やった! やりおった! バンザーイ! バンザーイ!」
 金ぴか先生の絶叫にあわせ、四方八方のタイガーズファンが万歳の大合唱。しょっぱなからバリバリ飛ばしてくれる展開だ。
「さあ、ホームランや。こっちゃ飛んで来い!」
「バントなんかすな。振れ。振って振って振りまくらんかい!」
「こら、ヘボピー、何ビビっとんじゃ、勝負せい。おどれは股座にちゃんと金玉付いとんのかッ!」
 怒り声のフリージャムが男川正朗の耳を5.1サラウンドステレオで襲う。男川も仕方なく口をパクパクさせて、形だけでも周りに従うしかない。
 マウンド上では、昨年千葉の某球団からジヤイアンツが大枚はたいて獲得した先発ピッチャー代々木郎希が、早くも肩で息をしている。首を回し、一塁側ベンチに視線を送った。
 ベンチでは、今シーズンより一軍正規監督に着任した阿辺慎之輔が腕組みして仁王立ちになっている。ジヤイアンツ生え抜きの新米熱血監督は、何食わぬ顔で右手の肘を左手でポンと叩いた。
 若い代々木は頷き、セットポジションから振りかぶった。
「あっ、危ない!」
 左翼外野席で観る男川正朗は思わず叫んでしまった。
 すっぽ抜けの直球がバッターの背後を通過し、バックネットまで転がった。
 タイガーズの打者は、ホームベースに両膝をついてバットを杖にして顔を歪めている。
 間髪を入れず、三塁側ビジターチームベンチから、大柄のアフリカ系外国人男性が飛び出して来た。
「¥●u? $■n of 唖 Bi◆血!」
 不明瞭発音の英語スラングを喚き散らし、火の点いていない見せかけだけのフェイク葉巻をペッと吐き捨てた彼は、マウンド上のピッチャー代々木郎希に向けて中指を立て、ぐいっと突き出した。
 おお、このお方こそ、タイガーズの今シーズンの監督に就いているドン・コステロなのだ。
 コステロ監督は、返す刀で一塁側ベンチに拳を突き出し、敵軍指揮官に向けて物凄い形相で怒声を投げつけた。
 男川たちのいる外野まで声は聞こえて来ないが、口に出すのもおぞましい罵詈雑言を吐いているのだろう。同じような意味の日本語が、ドーム球場内で渦を巻いている。
「お、おのれ、シンノスケのクソガキ! 卑劣なサイン出しよって! 与太郎みたいなボケ面のくせに、恥知らずの鬼畜外道めが。おのれおのれ、このカラス天狗のおじさんが成敗したる……」
 金色ジャケットにちりちりザンバラ髪の正義の勇士は顔が真っ赤。手に持った紙カップを振り回し始めた。
 中にあったポップコーンがバラバラこぼれ落ち、すぐ前の席に座っていた老人男性の頭に降り注いだ。
 老人は振り返り、チッと大きな舌打ちをした。
 でも、何も言わずにすぐに前を向く。
 隣には、年配のご婦人が寄り添って座っている。二人の横には空席がひとつあった。
 男川はグラウンド上の一触即発の出来事よりも、このシルバーカップルの方がさっきから気になっていた。老人はタイガーズのHTマークの野球帽を目深に被り、大きなサングラスを掛けている。
 隣の御婦人はというと、同じくらいの年配で、派手なブロンドウィッグの下に鎮座する角張った顔をバッチリメイクでゴージャスにキメている。彼女も大きなサングラスをしていて、身に着けているいかにもブランド品といったお召し物のあちこちには、高価そうな光り物が見え隠れしていた。
(あれれ? この二人って……!?)
 男川正朗はあまり野球に詳しい方ではない。それでも、目の前にいるこのフルムーンカップルにそっくりの某有名人たちの顔は覚えていた。
(まさかだけど……? あの……??) 
 でも、周囲の虎キチの人たちは誰も何も言わないし、隣にいるカラス先輩も知ってか知らずか何もコメントを発しない。
 だから、ヘタレ偽物HTファンの男川の口から言い出して騒ぎにする事はあるまいと、この場は知らん振りして黙っていようと決めたのだった。

 グラウンド上、両軍乱闘の危機は去った。
 タイガーズのドン・コステロ監督は審判団にひととおりの抗議を終えると、あっさり踵を返した。
 顔を歪め、胸を抑えている。自軍ベンチに引っ込む時、大きく咳込んでペッと唾を吐くのが見えた。
「なんねなんねー。おいおい、もうお終いかいな。それはないやろ。我らがドンはん、人が良すぎるがな。あんなクレヨン慎之輔のガキになめられたらあかんがな」
 高野山のカラス天狗の怒りはまだ収まらない。
「カラス先輩、あの外国人監督、唾を吐いてましたよ」
「な、なんや。ええがな。唾ぐらい。熱き血潮のたぎる我が猛虎軍団は、スカした甘っちょろいお江戸の金満お公家さんチームとちゃうんやで。ベンチの床を汚すぐらいは勘弁してちょ」
「でも、ここからは遠くてはっきり確実に見えたわけではないんですけど、その熱き血潮が、吐いた唾の中に混じっていたみたいなんですが……」
「そら、あれやな。歯軋りして口の中噛んだんやろ。なんちゅぅても、セニョール・コステロ氏はカリブの漢や。ワシも日本のカリブ海、偉大なる大阪湾の岸辺で生まれた男や。ワシも、口の中が熱き血潮だらけなりそや」
 ドレッドヘアーの金ぴかオヤジはポップコーンを口の中に押し込んだ。
「ところで、あのコステロ監督って、タイガーズのチームに来る前はどこにいたんでしたっけ?」
「なんや、お前、ホンマにプロ野球の事知らんな。ええか。ドン・コステロことドナルド・J・コステロ氏はな、カリブ海に浮かぶプエルトリコの出身で、アメリカ本国に渡って、大リーグで苦労して監督にならはった素晴らしいお方や。去年まではコロラドにある大リーグチームのロッキースで頑張ってたんやで。我が日本のタイガーズのオーナーはんは浪花節が大好きやさかい、どん底チームの再生を担うのは、苦難の人生を乗り越えて来たマイノリティのガッツある人と考えたわけや。どや、わかったか」
「ふーん。そうなんですか。いや、僕はてっきり、同じ外国人監督だったら、あの有名なランデイ・パースさんが適任かと思ってたんですけどね。だって、カケブと並ぶもう一人のミスタータイガーズだったんでしょう。ずっと大昔に優勝した時の立役者で。そういえば、最近は、タイガーズというチームは、優勝って言葉をあまり聞きませんねぇぇ!」
「ええい、それはゆうな。ゆってはならぬ」
 金色のオーラを放つエロ漫画家先生は、ポップコーンを年下の駆け出し小説家の口にいっぱい押し込んだ。
 男川正朗は目を白黒させてばたばた暴れる。
「うぐうぐ、うぐぐぐぐ……」
「ひひひ、食え、食えっ。クエッ、クエッ、クエエ~~」
 すると……
「こらぁあっっ! 後ろにいるちんちくりんお下げ髪のアホとトレンチのオカマ野郎! お前ら、ギャンギャンうるさいんじゃ。もっと真面目に静かに野球観戦を楽しまんかッ!」
 前席にいる老人が大声をあげた。顔を前に向けたままであるけれど。
 いたずらカラスは口を本物の烏のように尖らせたが、老人の迫力に圧倒されたのか、素直に首を垂れるのみである。
「へぇぇっ。すんまへんです。失礼いたしやしたぁ。はぃぃー、堪忍です。堪忍してつかーさい。くわばらくわばらですぅ。南無阿弥……」

 そんなこんなで外野がワイワイ騒いでいるうちに、試合は1回の表が終了した。先攻タイガーズのランナーは三塁まで進んだが、結局無得点のままで攻守交替になる。
 さあ、次はジヤイアンツの攻撃だ。広いドーム球場内の空間に歓喜の声が満ち満ちた。
 Gの一番打者、やんちゃ番長阪本隼人がバットをちょこん合わせると、打球はショートの横を軽く抜けて行った。
 続く二番の麻呂義浩が軽く転がしてランナーを進めると――
 三番、丘本和馬の大飛球は、悲鳴をあげるカラスの高野山次郎先生の目前フェンスぎりぎりでタイガーズレフトのグラブに納まった。
 次にのっしのっしと打席に歩み寄ったのは、Gの不動の四番、ウォーレン・シロマティ・ジュニアである。
 うおおおーーという唸り声が一塁側とバックネット裏、敵陣ライトスタンドから湧き上がる。男川正朗は、自分が現在いる場所がどこなのかも忘れ、立ち上がりそうになった。
「それえっ、行けぇっ。トーコンこぉめぇ……おぉおっと! この場所で歌ったら殺されちゃうか……」
 ジヤイアンツ四番の横綱打者への第一球は、内角をえぐるカーブ。
 どすこい!
 重量級バットが一閃した。
 グワッキィィーーーン。
 快音と共に球が伸びる。伸びる。伸びる……入ったぁ。
「ぎゃぁぁ……ああっ……あ~あはぁ……はぁあぁぁ……」
 ドーム内の歓声が失望と安堵のため息に換わった。打球はレフトスタンドのポールすれすれでファール側にそれた。
「ひぃぃぃ……あかん。こんなん心臓に悪いで」
 金色ジャケットのおっちゃんが床に尻餅をついている。先ほど、たかが野球と自分で言っておきながら、身も神経も命も削るような野球観戦だ。
 そして、ジヤイアンツ球団の史上最強助っ人と呼ばれた名スラッガーの遺伝子を引き継ぐ黒船バッターへの第二球は、
 鋭く落ちるフォーク!
 シロマティ・ジュニアのバットがピクリと動く。
 ……ボール。
 アンパイアの手は上がらない。
「うおぉぉぉぉ。主審ナイスジャッジ~~!」
「ブー、ブーブーブー! 今日のアンパイアのどアホ。おどれはジヤイアンツの接待漬けに遭って買収されとんのかッ」
 第三球――
 外角高めのストレート。
 助っ人横綱のバットが火を噴いた。
 ドッカァァアァーーンンーンン!
「あかん、やられたッ」
 打球はHT帽の一塁手の頭上を弾丸ライナーで突き進み、途中でホップして、オレンジ色と白と黒で埋まったGファンの聖域、ライトスタンドに突き刺さった。
 ジャーン、ジャジャ、ジャララーン♪ チャアラ~リィ、ラララン♪……
 懐かしの某野球アニメのテーマソングのイントロと共に、割れんばかりの大歓声がドームを揺るがして行く。
 狂喜乱舞のオレンジ色の一塁側やライトスタンドと対照的に、こちら側、黄一色のレフトスタンドの人々は皆が座り込み、沈黙してしまった。
 すると……
「ヘボ・キャッチャーめが……配球の組み立てが全然なっちょらん」
 呟いたのは、ギャーギャーうるさいラスタの旦那ではなかった。
 男川の前席に座る老人男性であった。
 隣に座っている年配女性が老人のわき腹をそっと突つく。
「もうっ、パパったら、ダメよぉー。下界に『降りて』来た時は、そうゆう事は言わないってお約束でしょお」
「ちゅうたかて、このわしは有名な……うん、そやな。そやった。わかった。すまんすまん。こっちの娑婆の世界では、オマエの言う通り、わしはおとなしゅうせんといかんな。閻魔大王様に叱られるところやった……」
 老人男性は恐妻の尻に敷かれる気弱亭主みたいに素直に応じる。その姿は、どこか田舎から来た仲のいいおのぼりさん夫婦の野球観戦に見えない事はない。
 見えない事はないのだけど……でも、この二人って、あの有名な……いや待てよ……あのお二人は共に、既にこの世にいないはず……
(だよなぁ。まさかだよな。そんな事あるわけないよなぁ……)
 男川正朗は、着込んだトレンチコートの背中に、ぞぞっとした冷気を感じてしまったのだった。

 早くも初回で2点を失ったタイガーズは、2回の表、反撃の狼煙を上げた。
 六番打者がヒットで出塁すると、続く七番はナイスガイ外国人選手のテリー・シュルツコフである。彼は助っ人では珍しいキャッチャーのポジションに就いている。なお、打撃に対してはあまり高い評価を得ていないらしい。
 シュルツコフは第一球を見逃した。
 第二球もボール――
 打席を外し、自軍ベンチを見る。
 大リーグチームからやって来た実力派監督が腕を動かし、サインを送る。ここはバントで打者を進めるのが定石か。
 タイガーズのナイスガイ選手は自軍の上司を一瞥し、打席に入り直した。軽く素振りを二度三度入れる。
 ジヤイアンツマウンドのピッチャー代々木郎希が大きく振りかぶった。
 第三球――外角低めのシュート!
 シュルツコフのバットが廻った。
 パッコーーーンンンン。
 変速スイングですくいあげた打球は高々と宙に舞い上がった。
 総立ちになるレフトスタンドの虎の住人たち。
「こ、来い。来いっての。来てぇな。ホームラン様よ来てちょうだい。お願い。ぜひ、いらっしゃって……」
 フラフラ上がった打球はいつまでも宙を漂い、ゆっくり高度を下げて来た。目指すは、金色ジャケットを着たタイガーズファンがいる左翼外野席ポール際。
「来たぞ。来た来た来たー! いらっしゃったッ! 獲ったぁ! うおおおおっ! 同点弾が我が掌中にすっぽりと! グラシアス! ざまあミロのヴィーナス! どや見たかの三鷹は東京の中央線やぁ!」
 ホームランボールを素手のナイスキャッチで受け止め、感激で張り裂けんばかりの声を張り上げたカラスのおっちゃんに、周囲の野獣たちが襲い掛かる。祝福とドサクサ紛れの妬っかみパンチとローキックを何十発も食らいながら、超絶タイガーズファンの高野山次郎先生こと烏谷由伸氏の顔は至福に酔い浸っている。
『——シュルツコフ選手の来日初、今シーズン第1号ホームランです―—』
 場内アナウンスの中、ダイヤモンドを一周した優男は、同僚選手の手荒い祝福が待つ自軍ベンチに帰って来た。
 タイガーズの外国人監督が待ち受ける。握手の手を差し出したナイスガイに、老練な指揮官はしかし、手を差し伸べなかった。かわりに厳しい顔で何か言葉をぶつけた。
 シュルツコフ選手の顔が歪み、被っていたヘルメットを放り投げた。
「FU××!」
 壁を蹴り、扉を蹴飛ばしながらベンチ裏へ引っ込んでしまう。それを追って、コステロ監督も扉の奥に消えた。
「何やってんでしょうね? あれは」
 男川正朗はオーロラビジョンに映し出された一連の光景を見ながら、隣の金色の先輩に聞いた。
 夢うつつのカラス大先生は、くしゃくしゃのモップみたいになったドレッドヘアーを直そうともせず、ホームランボールを両手で撫でくり回している。
「ん? 今、ワシに何か問うたかちら?」
「ドン・コステロ監督、何が気に入らなかったんでしょうね?」
「ああ、あのベンチの内輪揉め騒ぎかいな。あれは、監督がバントのサイン出したのにシュルツの奴が従わなかったんで憤慨してたんやろ。苦労人のオールド・タイガーは頑固一徹な人やさかい」
「同点ホームランを打ってくれたのに?」
「結果は今回は良しやったけど、次もそうなるとは限らへん。試合のコンダクターは司令官である自分であり、個々の選手の勝手なスタンドプレイは絶対許さんちゅうのが彼の信念なんや。たとえそれが同胞人である外人選手であってもな。今時立派な考えや。いや、日本のプロ野球人も見習うべきよのう」
 そのスタンドプレーで生まれたホームランボールを宝物のように慈しみながら、人生の哲人である売れない官能漫画家先生は、しごく冷静な事を宣うのであった。

 そうして2回の表が終わった。同点に追いついたタイガーズは、ジヤイアンツの反撃を絶つべく鉄壁の守りに入る。入るはずなのだが……
 いつまでも主審の手が上がらない。
 ジヤイアンツのバッターも打席に入れず、ネクストバッターズサークルでオロオロしている。
 そうなのだ。タイガーズのキャッチャーがいないのだ。
 先ほど同点ホームランを放ち、スタンドプレイを監督にとがめられて激高したままベンチ裏に姿を消したシュルツコフ捕手がグラウンドに出て来ないのである。
 観客がざわざわし始めた。主審とサード塁審が揃って三塁側ベンチに歩み寄った。
 と、ベンチの奥から、キャッチャーマスクにプロテクターを付けたシュルツコフ選手が内股でなよなよ小走りで出て来た。
 ホームベースにささっと着座する。後ろにいる主審が怖い顔で小言を言ったみたいだが、マイペースアメリカンには通じてないようだ。
 守備チームの捕手がどうにか腰を落とした所で、ようやく主審の手が上がろうとしたが、そこにまた、水を差すタイムの声が掛かった。
 声が出たのは、タイガーズベンチからだった。
 右手を大きく掲げて歩み出て来たのは、かつて火の玉ストレートで名を馳せた往年の甲子園マウンドのクローザー、瓜実顔の舞台役者男、藤河球児ヘッドコーチである。
 見れば、三塁側ベンチの中にコステロ監督の姿が無い。先ほどサイン指示を無視した自軍選手を叱って、その選手を追ってベンチ裏に消えてしまってから、現場に出て来ないのだ。
「こら、あれやな。球児の奴、監督が不在やから、プレイ再開は待ってちょうだいっちゅう話してるんやろ」
 手にプロテクターマスクをぶらぶらさせた主審は、あからさまに不機嫌な顔をタイガーズの人気者ヘッドコーチに向けている。現場指揮官がベンチにいないからと言って、試合を遅延させるわけにはいかない。監督がいないなら、あんたが監督代行をやれ。どうせ事実上はあんたがタイガーズの監督みたいなもんなんだろうと、嫌味のひとつでも吐いてるに違いない。
 藤河球児ヘッドコーチは折れた。ベンチに引き下がり、腕組みをして仁王立ちのポーズを取る。
 試合が再開されるようだ。
 ドーム内のざわめきが歓声に変わった。
「球児ぃぃッ、やっぱり役者やのぅ。アンタが主役! アンタが若大将。そや、もうええがなー。今から、あなた様が我が猛虎チームの監督やっておくんなはれー!」

 ようやく主審の手が上がった。
 この回から新たにマウンドに上がったタイガーズのピッチャー藤並進太郎の腕がしなる。剛速球がズドンとシュルツコフ構えるキャッチャーミットに収まった。
「スッティライイイックゥゥ!」
 オーバーアクションのジャッジパフォーマンスが飛び出た。レフトスタンドを満杯にして陣取る黄色と黒のタテジマシャツや金色ジャケットの人々の口からも雄たけびが上がる。
「うおおおお。えぇでえぇでぇ。藤並ちゃん走っとるでぇ。そうれそれそれ、時速160キロ時速100マイルの剛速球じゃい。全部三振じゃい。それ行け、やれ行け~!」
 金色のおっちゃんの手には、いつの間にか、ポップコーンに換わって黄金色の生ビールのカップがあったりして。
 ピッチャー藤並進太郎は鬼神のごとく、ジヤイアンツ打撃陣をなで斬りにした。
 ツーアウトを取って、迎えるはジヤイアンツ九番バッターの代々木郎希投手だ。気の無いそぶりで打席に立った若い代々木は、初球と二球目を簡単に空振りする。
 三球目――
 ちょこんと出したバットがスライダーを捉えた。
 打球はフラフラとホームベース後方に舞い上がった。
 イージーフライと誰もが思ったが、キャッチャーマスクを被るシュルツコフは、膝を地に付けたまま振り向きもしなかった。マスクを脱ごうともしない。というか、彼は立ち上がる気配すらない。
 打球はポトリと主審の後方バックネット前に落ちた。
 ドーム内は狂乱の大歓声と嬌声。
 それらに混じって、罵声も飛び交う。多くはレフトスタンドからである。
「このボケー! ヘボキャッチャー、何やっとんじゃい! さっさと捕りに行かんかい!」
「横着すな! ちゃんと働け! 仕事せい! 出稼ぎアメリカ人!」
「日本を馬鹿にすな、ドロボー害人め! ヤンキー・ゴー・ホーム。沖縄の基地を返せ! 米軍は出て行け!」
 可愛さ余って憎さ百倍、身内の怠慢やミスにうるさいのも、恐怖の虎キチ応援団ならではである。
 当のイケメン・ヤンキー捕手はそんな野次などどこ吹く風といった感じで淡々とボールを拾い、マウンドに投げ返した。
 結局、ジヤイアンツの安全牌バッターの代々木郎希は三振してしまった。三者凡退でチェンジになる。
 フィールドに散っていたHTマーク帽の選手が戻って来たが、タイガーズベンチにそれを迎える鬼監督の姿は無い……。

 その後、3回4回はタイガーズの三者凡退で終わってしまった。ジヤイアンツも同じような淡白な攻めが続く。
 試合は序盤とはうって変わってつまらない展開になった。
 5回表、ビジターのタイガーズに、中だるみを打開する待望の一発が出て、レフトスタンドは大騒ぎ。
「やった、やった! これで勝ち越しや。今日の試合はもろたで。そうれそれそれ、皆なの衆、花のお江戸のド真ん中で六甲颪の大合唱じゃい!!」

 ……そんなこんなのうち、5回裏、ジヤイアンツの攻撃に移る場面になって、「事件」は起きてしまったのである。
 三塁側、タイガーズベンチの中がおかしい。なんと、選手やコーチたちが一人もいないのだ。
 主審と三人の塁審がベンチを覗き込み、奥へ消えた。
 なかなか出て来ない。
「おいおい、何やっとんね。ダラダラしおって。こっちゃ高い銭払うて野球観に来とんやで」
 大阪カリブのレゲエ怪鳥はカアカアうるさい。隣にいる男川正朗は、チケット転売ヤーを脅してタダで来ているのだとは口が裂けても言えない。
 ドーム内がざわざわし始めた。テレビカメラがいっせいにタイガーズベンチの方を向いて固定される。
 しばらくして、ベンチの奥から、マスクも帽子も脱いだ主審が早足で出て来た。
 彼は一塁側のジヤイアンツベンチに駆け寄り、阿辺慎之輔監督たち首脳陣を呼び寄せた。
 ひそひそ話を始める。新米監督の耳と鼻がピクピク動き、驚いた顔で何度も大きく頷くのがオーロラビジョンに大きく映し出された。
 さらに主審はバックネット前に進み出て、フェンスにあるドアを開けて二言三言伝令をした。そして、ドア奥からマイクを受け取って両手に捧げ持つ。
 球場のざわめきがピタリと止まった。
 主審はうおっほんと咳払いし、そして震える声で話し始めた。
「えー、私は本日の試合に責任を持つチーフアンパイアです。ご来場の観客の皆様とテレビ視聴者の皆様に説明申し上げます。実は、先ほど、タイガーズチームの藤河球児ヘッドコーチから至急の緊急連絡を受けまして、当東京ドーム球場内のビジターチームロッカールームにおきまして、タイガーズのドン・コステロ監督が倒れているのが発見されました。コステロ監督はすぐに球場内の救護室に運ばれましたが、既に心肺停止状態になっておりました。当直の医師が緊急の蘇生処置を施しましたが、悲しいことに先ほど死亡が確認されたとの報告であります。なお、コステロ監督の死因は、今のところ不明です」
 ドーム内あちこちで、ええーーという声が上がった。
 それは瞬く間にうおおーー、ぎゃああーー、ひいいーーと大きなウェーブになって空気を揺るがして行った。
「くええええーー、な、な、何やとぉぉ……」
 黄色と金色のタイガーズファンが陣取る左翼外野席も大きく揺れた。
 オーロラビジョンの画面いっぱいに緊張した顔を掲げた主審は、話を続ける。
「何とも痛ましい悲しいアクシデントです。私ども審判員は協議をし、タイガーズの臨時監督代行に即時就任した藤河球児ヘッドコーチ、そして、ジヤイアンツの阿辺慎之輔監督に相談しました。また、セ・リーグ事務局と日本プロ野球コミッショナーにも連絡して今後の指示を仰ぎました。はい。タイガーズチーム選手諸君の心の動揺があります。今後の警察の捜査もあります。よって、本日の試合のこれ以上の続行は不可能と判断いたしましたので、この試合は5回表終了の時点でサスペンデット、セ・リーグ事務局預かりとさせていただきます。ゲームセット試合成立というのではなく、試合途中預かり、一時保留です。後日に、5回裏から試合を再開いたします。皆様、どうかご理解いただけますようお願い申しあげます」
 後はもう聞こえなかった。
 東京ドームを埋めた5万もの観衆が発した悲鳴と怒号と唸り声が、強烈なパルスになって頭上の天幕を突き上げた。

             2

 翌日は雲ひとつない五月晴れ――
 西日というにはまだ早い強い日差しがビルの谷間の狭い空から注がれている。
 男川正朗は白いシャツの上に地味なブルゾンを羽織ってジーンズ姿。ポケットには昨日悪徳転売ヤーから巻き上げた入場チケットの半券が入っている。
 球場ゲートには、普段よりかなり長い行列が出来ていた。入場の際の所持品検査に時間が掛かっているのだ。無理も無い。昨日あんな事件があったのだから、球場スタッフも神経を尖らせている。
 回転ドアを通り、ドーム内に入った。
 いつもと違う雰囲気を感じた。観客が席についてから動き回らないせいなのか、空気の流れがほとんど無くて、重く澱んでいるように思えるのだ。売店のホットドックやアルコール類の販売コーナーも閑散としている。
 左翼外野席エリアに入り、半券の番号を確認して自席を探した。

 記憶に残ったままのレフトポール際の席には、既に先着の人間がいる。
「よっ、自爆トレンチのハードボイルド探偵さん。今日はまた全然渋くない、ずいぶん小ざっぱりした格好やな」
「ほっといてください。一年365日、そんなコアなコスプレなんかやってられませんよ」
 男川は席に腰を下ろした。
 周りを見渡すと、ほとんど昨日と同じ面子の人たちがいる。保留試合の半券を持ってればタダで観戦できるわけだが、それでもさすがにタイガーズファンは律儀な人間が多いと感心してしまった。
 前を見れば、昨日と同じ顔の老年カップルが座っている。二人の横は、やはり昨日と同様に空席のままだ。
「再開試合のプレイボールは6時半なんやと」
「まだ少し時間がありますね」
「そやな。その間にいろいろ考えてみよやないか」
 昨日とうって変わって、喪服みたいな黒シャツに黒ズボンを穿いて、故人のオールド・タイガーに弔意を示しているらしいカラス先輩は、手に持った何紙かのスポーツ新聞を広げた。
 一面のトップは、当然のごとくどこもドン・コステロ監督の突然死の件で埋まっている。極端な新聞社では、『東京ドーム殺人事件』というエキセントリックな見出しを付けたものもあった。もっとも、見出しの最後に定番の?マークがくっついてはいるが。
「結局、コステロ監督の死因は何だったんですか?」
「それが、警察もまだ結論を出さへんのや。外傷もなく、不審死という事で司法解剖もして見たが、原因が解らへんらしい。心臓が停止する前に肺が呼吸を止めたらしく、脳が無酸素状態に陥って死に至ったらしいけどな。でも、なんで肺が止まったのか解らん。謎や。深ーい謎や」
「ううーん」
 男川正朗は爪を噛んだ。
 実は、彼は彼なりに迷探偵もとい名探偵の名を証明すべく、ゆうべ一晩かけて論理の構築をして来たのであった。
「思うに、これはやっぱり人為的な『事件』なんじゃないかな」
「よしよし、よう言うた。そう来なあかん。それでこそや。我らがマーロウ君の貴重な推理を拝聴するかいの」
「まあ、つまり、昨日の試合で見た或る奇妙な出来事が僕のドドメ色の脳細胞にずーっと引っかかってるんです」
「奇妙なというと、どれがじゃい。試合のタイムテーブルで行くと、何回のイニングの出来事や?」
「2回の表です。例のハリウッド俳優みたいな色男のタイガーズの外人選手が、監督のバント指示を無視してホームランを打った時です。得意満面のドヤ顔でダイヤモンドを一周して来た彼を待っていたのは、祝福の握手ではなく、鬼監督のきつい叱責だった」
「確かに、シュルツの奴は怒られてかなりキレてたわ。で、ベンチ裏に引っ込んでしまいよった。それはオーロラビジョンとテレビ中継で、ドームの観客全員と全国のテレビ視聴者が証人になってるわな」
「コステロ監督も逆上して、彼を追いかけました。その後の話は解らないけど、監督とイケメンキャッチャーの二人の間で何かトラブルがあったんじゃないかと推測されます」
「つまり、ベンチ裏でシュルツのアホがコステロはんと揉めて、掴み合いになったっちゅう事かいな」
「いや、外傷はなかったと発表されてますからね、何とも判りません。でも、リアクションはあったんでしょうね。だって、それ以降のシュルツコフ選手には明らかに変な兆候が現れていたから」
「2回裏の守備の時のキャッチャーの遅刻かいな。そうやの。確かにあん時のシュルツの奴は、だいぶ慌ててベンチの奥から出て来たわな」
「御意。さらに、その後の彼のキャッチャーとしてのふるまい、あれがとても僕には引っかかるんです」
「というと?」
「ジヤイアンツの代々木選手が打席に入った時の事です。安牌打者のピッチャーの9番が打った平凡なキャッチャーフライを怠けて捕りに行かなかった場面」
「ああ、あのシーンな。ワシもあん時は、観てて血管キレそになったで」
「そう、左翼外野席の周りの皆さんもガミガミ怒ってましたっけね。でも、あの時のシュルツコフ捕手は職務怠慢だったのではなく、自分の意志で、あえて凡フライを捕りに行かなかったんじゃないのかな」
「とゆうと? よう解らん。もっと噛み砕いて、カラスの脳味噌でも解るよう説明してちょ」
「つまり、キャッチャーフライを追う時のキャッチャーの基本動作、被っていたプロテクターマスクを外す事が出来なかったという事ですよ」
「何でやねん?」
「それはですね、シュルツコフ選手の顔面か、または被っていたヘルメットの額の部分に、目立つ物、はっきり言えば『血痕』が付いていたからではないでしょうか。彼は、それが白日の元に晒されるのを恐れた、とは考えられませんか」
「血痕やと? そっか。暴力をふるう相手に対し、抵抗するコステロ監督の口から血がほとばしる。真っ赤な血は暴行者の顔面に付着する。しかし暴行犯はすぐさまベンチに戻ってキャッチャーの仕事に戻らにゃならん。血痕を拭ったり消している時間なぞない。彼は急いでプロテクターを付けてマスクを被り、グラウンドに飛び出して行く。なれど、顔のプロテクターマスクは一時も外すわけに行かへん。ただの凡キャッチャーフライが上がっても捕りに行けへん。顔やヘルメットに残ってしもた犯罪の『痕跡』を晒すわけには行かへん。観客やTV視聴者に赤い汚点を見せてはならん。そう考えたっちゅう事かいな」
「まあ、あくまで仮説ですけどね。僕が考えた……」
 男川正朗はそこで言葉を呑み込んだ。
 目の前に座っていたタイガーズのHTマークの野球帽がくるりと振り返り、庇の下から怖い目が自分を睨みつけていたからである。
 前席に座る老人男性はサングラスを外していた。
 その素顔は、世の誰もが知っている、或る超有名野球人のものと瓜二つだった。

             3

「あ、あ、貴方は……」
 男川は口をぱくぱくさせた。
 横では、相棒の黒服カラス先輩が口をあんぐり開けて白目を剥いている。
 前席の老人男性は、ニヒルな笑みを口元に浮かべた。
「驚いたか。そやろな。本来なら空のてっぺん雲の上から野球観戦しているはずのわしが、下界の娑婆のこんな場所におるのはありえへんからな。そや、隣にいるのは……わしの最愛のワイフ様や。皆なご存じやろ」
 タイガーズの元監督であり、その前後にも他球団を指揮してプロ野球界に多大な貢献をし、口癖だった「オレは宵待草」の自嘲自虐キャラが今でも根強く記憶に残る超有名野球人の横で、ドヤ顔のセレブ夫人がにっこり微笑んだ。
「そゆこと。ヨ・ロ・シ・クね。おほほほほ……」
 とたんに、ぞぞぞぞっと、背中だけでなく首筋やお腹や股ぐらの二つの玉袋まで鳥肌立ってしまった駆け出しミステリー作家のヘタレ男。
「あわわわわ……で、出たぁぁあ……」
 生温かいものが股間を流れて行く。
「ひ、ひぃいいぃぃ~~」
 目の前の老人男性はペロリと舌を出した。
「……なんちゃってな。ふふん。バカめ。マジで真っ青になりおって。ほれほれ、目ん玉開けてよく見ろ。わしらにはちゃんと足が二本生えてるわ。わしら夫婦は二人とも生身の人間やね。安心せい。幽霊やないで」
 お茶目に片目を瞑って白い歯を見せた。
「まあ、つまりなんだな。ぶっちゃけた話、わしらは、ここ東京ドーム左翼外野席名物の、勝手に成り切りのそっくりさん夫婦ちゅうわけや」

 男川正朗は全身の力が抜けて、座席から転げ落ちてしまった。
 そんなヘタレ男に構わず、フェイクの有名野球人は、丹後訛りのくぐもった低音ボイスで宣うのである。
「まあ、わしも、見ての通り一介の市井のリタイア親爺や。こうして妻を伴って仲良く試合観戦や。安い外野スタンドでな。でも、それが本当の野球好きというものやろ。それでまあ、黙って後ろにいるお前らの話を聞いてたら、もはや我慢できなくなってもうたわ。よくぞここまで下らんガセをベラベラくっちゃべるもんだわい。おい、脳天の寂しい崩れた茹で玉子みたいなお前、ユーはどこぞのスポーツ新聞のチンピラ記者か?」
 天国にいる「本物」に負けない毒まみれの唾が男川に降りかかる。
「い、いいえ。じ、自分は、自称本格探偵小説作家であります」
「何い! 探偵小説作家だとぉ? このボケぇ! こんなボンクラ推理をする探偵作家なんぞがこの世におるかいな」
 容赦ない舌鋒。他人に恨まれようとどうなろうと、孤高の中で自分を主張する。さすがは宵待草と呼ばれた人物。いや、その人物に成りすましている図々しい妖怪ジジイ。
「お前の言う仮説とやらはな、基本的に間違っているんや。まず、野球選手というものは人殺しなんかするわけないのや。シュルツコフが2回裏の守備の時に遅刻して慌てて出て来たのは、奴が直前までベンチ裏のトイレでウンコしてたからや。あいつは腸が弱く、下痢症なんや。そもそも監督のバント指示を無視してホームラン打ちよったのも、さっさと打席でバット振って、あわよくばダイヤモンドを一周して、早くトイレに戻りたかったに違いないわ。その後にベンチの奥から変な内股で乙女走りで出て来たんやって、実は尻の穴から少しチビってもうたからちゃうか。そして、奴がジヤイアンツの代々木郎希の凡キャッチャーフライを捕りに行かんかったのも同じ理由よ。奴は腹が痛くて動けんかったんや。そういう事や。野球選手に悪党なぞおらん。殺人犯人なぞいるわけが無い。このわしがはっきり断言するッ」
「そ、それは、独善的な物の考え方だと思います」
「やかましい。わしがそう言うたらそうなんじゃい! それとな、ヘナチョコ探偵のお前は、血痕が付着した顔面やヘルメットがどうたらこうたら言っていたが、今のタイガーズの選手が被る帽子やヘルメットは黒地のものを使用しとるわい。大昔に優勝した時の黒ストライプ入りの白いスイカ柄やない。ちゅう事は解るか? そや。仮に顔面に吐き付けられた血痕が帽子やヘルメットにも付着したとしても、白ではなく黒地の上では目立たないんじゃ。血痕が残ってるのが周囲にバレんのじゃ。なれば、顔の前の部分を隠さんでもええっちゅう事になる。プロテクターマスクを被り続ける必要は無くなる。つまり、犯人がキャッチャーという説には無理が生じる。よって、シュルツコフは無罪っちゅう事じゃ。お前の立てた仮説とやらは、論理が破綻したミスリード、ミスディレクション以外のなにものでもないわい!」
 HTマークの野球帽の老人は早口でまくしたてた。

 男川は口を馬鹿みたいに大きく開けて老人の顔をみつめた。
 腹が立つよりも感心してしまった。
 口だけでなく鼻と耳の穴も風通しをよくして冷静に考えてみれば、確かに老人の言う通りではないか。その言い分には一理もニ理も百理も千理もある。
「わ、わっかりましたぁッ。私が不勉強だったようですぅ。申し訳ありません。……そ、それでは、そういうニセモノ監督もどきのオトー様の方はというと、この事件に対してどういう見解をお持ちなので?」
「何がニセモノや。東京ドームのここ左翼外野席に座っている限り、わしは偉大なる宵待草監督ぞ」
「し、失礼いたしました。ごめんなさい。よいよいの月見蕎麦のカントクさん」
「わしの推理を聞きたいんか?」
「はい……」
「真剣に話を聞くか?」
「イエス、サー」
「よし、じゃ、話してやる」
 成り切りニセモノ監督、「考える野球」「ID野球」を極めた生涯一捕手・有名球界人にクリソツの老人は身を乗り出して来た。

「ええか。警察はもうだいたい気付いているはずなんや。日本の警察ちゅうのは世界一優秀やからな。はっきり言って、これは人為的に発生した事件ではない。事故でもない。単なる『病死』や。コステロは病いで亡くなったのや」
「ええっ、病死ですって?」
「そや。新聞やニュースで何度も言うてたやろ。死因として肺の機能が停止し、酸素欠乏で脳死状態に陥ったと。そう、その通り。コステロは前々から、重い呼吸器系や循環器系の持病に悩まされていたんや」
「で、でも、そんなの誰も知らなかった……」
「わしは知ってた。わしは、何年か前までニューヨークの有名チームに所属しておった可愛い教え子君から、大リーグ情報をいろいろ得てるからのう……なんちゃってな。ぐふふふふ。まあとにかく、コステロが肺や脳の血管に強烈な爆弾を抱えていたのを、超絶情報通のわしは知っていたのだよ」
 老人は上唇をペロリと舐めた。
「コステロが気管支や肺を痛めたのは、彼が若い時から無類の葉巻好きだったせいと言われとる。プカプカふかすんやなくて、煙を吸い込んで体ん中で味わうヘビー・シガー・ジャンキーだったみたいやで。禁煙を命じられた今でも、試合中に火の点いてないイミテーションの葉巻を咥えてるくらいやからの。また、彼が体調を悪くしたのは、最近まで監督やってた大リーグのロッキースの本拠地、コロラド州のデンバーで長く生活していたのも一因と考えられとる」
 一呼吸入れてから、うんうんと頷いた。
「なんちゅうても、あのデンバーちゅう街は、標高が1マイル、1600メーターの高地にあるんでの。日本の谷川岳の山頂とほぼ同じくらいの標高や。だからあの土地は酸素濃度がやや薄いんよ。下界より気圧が低いわけで、空気抵抗に差が出て、打球が飛んでやたらホームランになる球場がある事で有名やからな」
 名探偵老人は名調子で語る。
 隣の令夫人らしき女性は、黙ってニコニコと最愛の旦那を眺めている。
「そんな気圧が低い空気の薄い高地の街で長く暮らした病持ちの男が、はるばる日本の土地にやって来たんや。しかも言葉の通じない異国の地で厳しい監督業や。ストレスはたまるがな。喉も、胸も、頭も痛むがな。そこへ持ってきて、この東京ドームやがな」
「えっ? そこで、何で東京ドームなんですか?」
「お前、ホンマにそれで探偵小説作家さんかいな。ええか、お前さん、この巨大な全天候型ドーム球場の一本の柱も無い天井の屋根の幕を支えているのは、何の力を借りてると思ってんのや?」
「ええっと、確か、ドーム内部に常に空気をポンプで送り込んで、建物全体を密閉状態にして、その空気の圧力で屋根の柔らかい天幕を押し支えていると聞きましたが」
「そや、その通り。このグラウンドはまさに巨大な風船の中なんや。お前も試合が終わった後に、このドーム建物の外へ回転ドアを通って退出する時に経験するやろう。ものすごい突風が吹く事に。これは、つまり、中と外の空気圧に差があるから起こる。そうなんや、この東京ドーム球場の内部は、外気より常に気圧が高くなっているのや」
 説明を聞いて、男川正朗はやっと理解した。ドン・コステロ監督が倒れた原因が。
 シガー・ジャンキーで、気圧の低い空気の薄い高地に永くいて呼吸器や脳血管を痛めてしまった人間が、遠い日本にやって来て、今度は、逆に気圧の高い空気の濃い場所で活動する機会が多くなった。
 ただでさえ血圧が乱高下する機会が多い商売、彼のボロボロになった気管支と肺と脳内の血管は、その急激な変動に耐えられなくなってしまったに違いない。

            4

「……恐れ入りました」
 男川正朗は立ち上がり、腰を45度に曲げて深々とお辞儀をした。 
 真底感激していた。
 隣にいる黒ずくめのセニョール・カラスはというと、まだ白目を剥いてひっくり返っている。
 男川は直立不動して、きっぱり宣言するのだった。
「私、宗旨変えをします。たった今から、私はタイガーズファンですッ!」
 往年の至高の野球人にそっくりの宵待ち草老人は困ったような笑いを浮かべた。隣の奥方と顔を見合わせた。

 と、そこへ割って入って来た人が―—
「やあやあ、どうもどうも、遅くなっちゃって。いやいやソーリーソーリー。アイムソーリーですね」
 甲高い声を舌っ足らずでゆっくり喋るその人物は、そっくりさん熟年夫婦の隣の空いた席にどすんと腰をおろした。
「いやあ~、昨日から、Gの前監督のかつての若大将クンや、国民栄誉賞をボクと一緒に貰った某愛弟子クンに掴まっちゃってね。うんうん、二人から、最近のジヤイアンツの体たらくが見るに堪えないって愚痴こぼされちゃってさぁ。ボクって、ほら、死ぬまで『名誉カントクさん』なもんだからね。……それにしても、いいねぇ。この左翼外野席って所。今まで見る事の無かった素晴らしい景色が広がっている。全然違うアングルで客観的にベースボールを見られる。いわゆるひとつのフレキシブルな思考ね。ああっ! 新米カントクの阿辺チャンが遠い一塁ベンチであんなに小っちゃく見える。あー、あいつ、一軍監督になっても、相変わらずストッキングを裾の外に出して履いてるんだ。可愛いな。あっはっは~~」

 今度は男川が白目を剥いてしまった。ぶっ倒れそうになった。
 そんなメイ探偵ならぬ迷探偵男川正朗に、HTマークの帽子を被った名探偵老人は、究極のドヤ顔で語るのである。
「なんや。何を驚いてんね。このお方は、わしの仲間でマブダチの自称チョーさんや。いつもこうして仲良く一緒に野球観戦しとる。もっとも、わしらの『本物さん』たちだって、実生活では仲のいいオトモダチ同士やったらしいで。ぶっちゃけた話、甲子園球場や東京ドームでお忍びで一緒に野球観戦してたゆう噂がある。マスコミはどこも報道せんかったけどな。そや、ただの都市伝説って事や」

                            ―— 了


(この小説はフィクションです。作中に登場する人物やプロ野球球団は、すべて架空のものです。字も微妙に違います)

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