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優しい声の溢れる世界に

狭い道を歩いていた時のこと。
ごーーーーっと音が聞こえ、後ろを振り向くとタクシーが異常な速度で近付いてきていた。

おお、危ないなと思って脇に避けたのだけれど、道の反対側にはベビーカーを押している子供連れのお母さんが二人。お母さん達も慌てて避けていた。

猛スピードで駆け抜けていくタクシーの後ろ姿を見ながら、「こんなに細い道で、そんなに速度出さなくてもいいのに危ないなあ」なんてことを思っていると、件のお母様が後ろでいたくお怒りのご様子。

「ちょっとさあ!!!!!あのタクシーこんっな細い道あんなスピード出すなんて非常識じゃない!?!? こっちはベビーカー押してるのにさあ!ちょっと本当にあり得ない。○○会社の××××(車のナンバー)ね……よし覚えた。大体……(以下略)」

……果たして、今の一瞬で何があったのだろう。
堰を切ったように止めどなく溢れ出す、溢れ出す。
お怒りはごもっともだしなんの異論もないのだけれど、お怒りが沸点に達し過ぎていて少しびっくりした。ナンバー暗記していたけれど、タクシー会社に苦情の電話でも入れるのだろうか…??確かに悪いのはそうかもしれないけれど、そんなに怒らなくても…いいのでは……と。
そしてわたしの中で嫌だなと思ってしまったのは、その声の周波数。
なんと言ったら良いのだろう、なんだかこう、底意地の悪さをかき集めて最大限濃縮したような、そんな声色だった。正直、猛スピードのタクシーよりも全然不快だった。

わたしには、昔から苦手な声の周波数があるなと思う。
具体的に言うと、意地の悪い声の周波数がとても苦手だ。
誰かが誰かの悪口を言っているとき、そしてそこに明確な悪意がこもっているとき、その悪意は如実に声色に表れる。
誰かと話していたり、ドラマや映画を見たりしていると「ああ、この人の今の声苦手だなー」と思う時がたまにある。(逆に、そういう声を意図して出すことのできる俳優さんは良い俳優さんだとも思う。)こういう声に触れる時、聞いているように見せているけれど実はあまり話を聞いていなかったりする。だって心がその声受け止めないんだもん。

逆に、いつまででも聞いていたいなという声の周波数もある。
完全に自論だけれど、声が良い人に悪い人はいない。
その人の内面は顔つきに表れるというが、声色にも表れると思う。
声色だけでなく話し方も含まれるのかもしれないけれど、この人の声や話し方は素敵だなと思う人は大体素敵な人だ。だいぶ暴論ではある。
(ちなみに、ここでいう声とか話し方は、声色の明るさとか滑舌とかではない。
上手く言語化できないけれど…)


過去のnoteでも音声メディアの可能性について触れたが、オンライン化する社会で五感がどんどん奪われていくので、聴覚から得ることのできる情報の重みはだんだん増していく気がする。

声の重みがこれからどんどん増していくのであれば尚更、優しい声が溢れる社会の方が良いなと思う。と、同時に他の人を変えることはなかなか難しいので、せめて自分は優しい声で話せるような人でありたい。(そして願わくば嫌な声の周波数からは離れて生きたい)

意地の悪いことばかり言っているとそういう声になっちゃうし、美しい言葉を出していたらそういう声になるはず。そういうものだと思うんですよね。

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