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「死も個人の無意識の選択」私の死生観。死を恐怖と思わなくなる唯一の方法

最近著名人が亡くなるニュースが多いなぁと思っている年の瀬です。

前からずっと思っていたし個人の発言としては発信していたけれど、
文章で綴ったことは無かったな、と思い
今回のテーマはコレ。

今から書くものは私個人の真実であって、
その他の人すべての真実であるということではありません。

そもそもこの宇宙は同時にすべてが存在する多次元構造なので
私が生きている地球とは全く違う基準とルールの地球だって存在します。

なので、あくまでも私の死生観。
私の死生観に触れて、もし
ホッとしたり
なるほど!と思ったり
いやな感じがしなかったら
おそらく、その人の真実にもなるんでしょう。

その辺の、
“自分にとって何が真実で何が嘘?”という見分け方は
以前書いたこちらの記事を参考にしてみてください!


では、本題へ


死は本人の意図とは関係なく理不尽に訪れる?


死は、本人の意図と関係なく訪れるのか?

これは、否です。
個人の意図で起こる。

その科学的根拠はありません。
が、圧倒的な感覚で知っている。

死は、本人が無意識の選択によって選んでいる
本人の一つの選択にすぎません。

私が言っている“死”とは、
この3次元世界における
肉体の死のことです。

厳密にいうと
肉体と魂が離れ、今世の幕を引くことを“死”と呼ぶ。

肉体は死ぬけれど、魂は死にません。

魂は肉体を離れると
(宇宙の源へ)戻るとか、次の選択へ行くとか
いろんな表現がありますが、
とにかく、魂というか意識というかは消滅しません。

で、今日のテーマは、今世に幕を引く“死”について。


死は、先ほども言ったように、
個人の無意識の選択によって訪れます。

生まれてくる前に
自分の寿命等もあらかじめ自分で決めて生まれてきますが、
生まれてからの選択肢が優先されたりするので
多少前後することもあります。

死が訪れようとするとき、
無意識のうちに自分で
『今この瞬間に肉体を手放すかどうか』の選択が迫られ、
無意識のうちに自分で決めます。

だから、同じ現象を体験しても(地震とか)
死ぬ人と生きる人が分かれる。

人に刺されても生きる人と死ぬ人に分かれる。

転んだだけでも生きる人と死ぬ人と分かれるし、
自殺しようとしても死ねない人と死んでしまう人に分かれる。

あくまでも“死”というのは
その時が来たら選択肢なく受け入れざるを得ないものではなく、
個人の選択の一つだということです。

この概念を自分の中に取り入れてから
死に対して悲しいという感情が湧かなくなったのよね~

悲しいってなんだろう…

“悲しい”をググってみたら、
心が痛んで泣きたくなるような気持ちだ。つらく切ない。
とありました。

…なぜ人が死んで自分の心が痛むんだろう…
“寂しい”ならわかるんだけどな。

悲しいかどうか決めるのは外野ではなく本人じゃん
と、ひねくれる私。

そもそも、悲しいという漢字は
心が非(正しくない)の状態にあるということで
悲しいって一体…


私は死産経験者なので、
その出来事に際しては寂しかったです。

抱いておっぱいをあげたかったな、とか
成長を楽しみにしたかったな、とか。

あくまでも個人が残念に思う気持ちであって
その人の死を悲しむという漢字ではなかった。

だって、本人の魂の選択が死なんだから、
その人の命の選択を勝手に悲しむなんて失礼だって思うのです。


自分の父親が亡くなった時もそうだったな。

もう今世では肉体を通じての会話ができないのか、
(意識として会話をするのは可能だけど)
って思うと寂しかった。

けれど、その人の選択である死を
こちらが勝手に不幸を決めるのは失礼だし、
他人にはその資格がないし、
そうか、今選択したのか、という気持ちで
その選択を受け入れるっていう感覚でした。

こんな死生観をしているからか
身内からも“冷たい人”と言われたことがありますが、
だって“死”はその人の命の選択であって、
悲しむべき不幸な出来事ではないと思うのです。


死=不幸?


『身内に不幸があった』とか普通に言うけれど、
人が決めたことを不幸って決めるけるこの非道さたるや。

私は自分のお腹の中で死んだ子どもに
『私を不幸にしやがって!』などとは微塵も思いません。

むしろ、私の幸せしか願っていないと思う。
そして、私を完璧に信頼してくれている。
だからこそ、安心して死を選べたんだと思っている。
そして同様に、私は私を完璧に信頼しているから
何が起ころうとも大丈夫だし、
自分の糧にしかならない。

だから、
死を選んだ息子(お腹の子どもっは男の子だった)に対しては
ありがとうしかないのです。


お葬式の一般常識で
『ありがとうという言葉は避けるべき』というものがありますが、
それは、死を絶対的な不幸だという概念がベースなものであって、
死に対して感謝がベースなのであれば
逆にありがとうしか出てこないお葬式になる。

近しい人を亡くしたばかりの方にとっては
突然の寂しさや混乱が生じているので
すぐには受け入れたくない状態かもしれないけれど、
それでも“死”はその人の今世最後の選択であり、
その人の命の選択に対しては尊敬と感謝の意を持ちたいと
私は常々思うのです。

だから、私のお葬式では
ありがとうを多発してほしい。
なんなら、よくやった!と褒めたたえてほしい。
そしてみんなで楽しく酒盛りでもしてほしいわww

私の選択を不幸として悲しむのではなく、
私の選択を受け入れて、ありがとう!と言ってくれたら
こんなに嬉しい生はなかったな、と思えるな。



昔の“かなしい”と今の“かなしい”は正反対


悲しい をググったら、
同時にこんなのも出てきました。

  1. (古くは「愛し」と書かれた)

    • 身にしみていとしい。切ないほどにかわいい

    • 心にしみるような趣だ。深い感興を感ずる。


…この昔の意味だったら、
人の死は かなしい わー!!!

その人がした選択が愛おしい。
どんな選択であれ応援したい。
泣けるほど愛おしい。


現代の“悲しい”と共通する点は
胸がキューってなる感覚?

愛おしすぎても
胸がキューってなって泣けるし
感動しても
胸がキューっとなって泣ける。


それが、いつの間にか
不幸とされることに対してのキューっと感にすり替わった感じか。

そもそも、
起こった出来事を不幸とするかどうかは
個人の主観でしかないしね。


私みたいな人間は、
死産でさえ幸福な出来事としてしまう。


悲しいと同義語の
哀しいも調べたら、

【哀】
かわいそうに思う。気の毒に思う。同情する。
慈愛の心で接する。
賞美する。めでる。惜しむ。

だそうな!!!!

昔の人は、
悲しい出来事も嬉しい出来事も
ひとつの心動かされる現象としてとらえて
ひとくくりで表現していたのかも。


自分が死ぬことに対して


自分が死ぬ瞬間は
無意識の魂の選択によって決まるので
今どうやって死ぬか、私にはわかりません。

分かっている人もいるけれど、
私の人生においては
いつどのように死ぬかを思い出さないということを
生まれる前の魂との合意として決めてきたようです。

どんな風に死ぬんだろうなぁ。

痛くないといいけど。
痛くても一瞬か。
溺れたらどんな感覚なんだろう。

それを考えると少し怖い気はします。

でも、
今私が死んだら周りがかわいそうだから
まだ死ねない!とかは思いません。

私が死ぬときは、
私にとっても周りにとっても
最高のタイミングで死ぬとわかっているからね。

死に方も、
その時のベストな死に方をするとわかっています。

自分が死にそうになったら
延命治療するかどうかはぶっちゃけ家族に任せます。

私は延命治療にお金を使うくらいなら、
そのお金で家族旅行に行ってくれ、と思うけれど、
家族が延命治療を望んだら、その経験はしてほしいとも思う。
延命治療しようとしても無理な場合は
延命治療が私の人生でも家族の人生でも必要なかったということだし、
結果、ベストなようにしかならないと思っています。


…今日のブログ、そのまま遺言にできそうだな。
死亡フラグ立ててやったわww


死ぬことより生きること


絶対にいつか死ぬ。

地球より高次元の星でも
今世の終わりのタイミングはあり、
自由意志によって今世を終えるかどうか決めることができます。

高次元の星の場合は、
「父ちゃんは〇〇星に勉強しに行くと決めたぞ!
みな、さらばだ、ありがとう!てや!」
的に、超ライトにその人生を終えるそうです(笑)

家族も、
「そうか!頑張って!出会ってくれてありがとう!ほな!」的なww


どんな人生であってもいつかは死ぬので、
どうせなら死ぬことよりも生きることを考えたい。

究極は、
明日死ぬと決めて今日を生きる、という感覚だと思うけれど。

明日は当たり前には来ない。
本当にいつ死ぬかわからない。

明日やろう、そのうちやろうと言っているものが
永遠にできないかもしれない。

ならば、
今日できることは今日、
今やりたいことは今、
やりきらずにいてどうする、人間。

毎日を100%で生きていると、
明日地球が滅亡するってなっても
今日やることは変わらない。

毎日、自分を満足させきって生きることは
死の恐怖を軽々と超える
心のキューン感をもたらしてくれる。


明日、目が覚める確証はどこにもない。

そう思ったときに振り替える今日は
100点満点で、ありがたくて涙が出てくる。

明日、家族が目を覚ます確証はどこにもない。
だから、眠る前にキスをして大好きと伝える。


死ぬ気で生きる。
いつ死んでも満足なように。



これが私の死生観。






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