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映画「JOKER」で知る絶望という病

映画「JOKER」はバットマンの敵としてダークナイトで悪役を演じたJOKERが生まれるまでを描いた作品。
この作品の面白いところは同じ映画を観ているはずなのに、観ていた印象や作品の内容が異なる点にあります。実際に友人と話していても作品のストーリーへの理解や思うポイントなども違っていて考察を話していても面白かったです。

そこで、心理学的な観点や哲学的な観点、アニメ好きなので類似点を持っている作品のキャラクターふとの比較などを通して徒然と書き記しておくことにします。

『僕』がこの作品のポイントとして考えているのは「自己の存在」です
物語ではアーサー(JOKER)は自分の存在を認識して欲しいと常に求めます。
母親に対して、福祉の社会に対して、仕事の仲間に対して、自分のアパートですれ違う人間に対して、バスの中で前の席に座る人に対しても……
彼は常に自分は生きていて存在するようにと生活をする中でだんだんと薄れていきます
それは透明になるような感覚だったのかも知れません

これに近い考えを持ってくるのであれば一つの著書が『僕』は心当たりがあります
死に至る病 
キェルケゴールの本で、死に至る病とは絶望のことであり、絶望に陥った人間の心理を深く考察した本であります
この本の内容には深く触れませんが読んでおくことで人の絶望を理解する一端を得ることはできるかと思いますのでオススメします

この本の中で絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三種の場合が考えられる
絶望して自己を持っていることを意識していない場合(非本来的な絶望)
絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。
絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

人間とは精神であり。精神とは自己である。自己とはなんであるか?自己とは自己自身に「関係」するところの関係であると記載してあります
つまり、「関係」を失うアーサーは自己を存在するものと認識できずになっていき絶望します

その中で人を殺すという行為が彼にとっての救いになるのです
クラウンというシンボルとともに彼を認識するようになるのです

しかし、それが皮肉にもさらに彼を追い詰めていくことになるのです
信じていた家族の絆も尊敬していたコメディアンの尊厳も全てに絶望していきます
絶望して自己自信であろうと欲する
これを経て至った境地がJOKER

これが『僕』の考える映画の考察なのですが、この映画のストーリーで全てを覆してしまう要因が一つあります。
それは描かれたストーリーのどこからどこまでが事実であるのかという点です。
この理由はアーサーは精神疾患を患っていて妄想で描くストーリーもここでは鮮明に差し込まれているからです。
何を事実で何を妄想だったのかという点でも観た個人個人の意見は異なってきて作品自体も変わってくるからこれは不思議です。
そう、それはまるでギャルゲーの分岐ルートのようなものですね
そこの認識を確認し合って話し、楽しむことができるのもこの映画の醍醐味なのではないかと思っています。

類似するアニメ作品として頭に過ぎった作品
PSYCHO-PASS
この作品はノイタミナ系列で放送されていた近未来SFアニメで『僕』はこの作品の大ファンです
理由は話しの構成やキャラクターも好きですが現時点における日本の未来をここまで近く表現している作品は攻殻機動隊や伊藤計画の作品ぶりでリアルさを感じるからなのでしょう。
この作品ではシビラシステムというものが人間を数値化して管理をしています
また、犯罪係数というもので犯罪を予防することもできる社会
しかし、そのシステムに認識されない槇島という男が出てきます
彼は特別な人間でその数値に反映されないのです
つまり、「存在」しないと同意儀と感じる彼は次々と犯罪を犯していきます
それは楽しむためなのか、自分自身は透明人間ではないという証明のためなのか……

存在を哲学的に語るのであればハイデガーでもいいのではないかと思うこともあります
しかし、ここで取り扱う存在は性質の異なるものでそれは絶望というものを濃く彩るキェルケゴールと一緒に書いてみた次第です
この作品を観た人と話してみたいなと思うことはありますので是非知っている人であればお酒でも飲みながら……

もう少し丁寧に長文で書きたいとことですが個人の感想の長さを逸脱するのも気がひけるのでこの辺にしておこうと思います

#映画 #ジョーカー


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