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小説:距離を取るという愛【3800字】

それは、美津子が自分の家族と定住先を決めたばかりの頃だった。
美津子にとって長年の付き合いがあり、心置きなく話せる親友の尚子は、長い海外生活を経てようやく日本で落ち着く場所を見つけたばかりだった。尚子が立ち寄った美津子の家はあまりに静かだった。尚子が「何か音楽を掛けてくれない?」と言ったので、美津子はかつてBLUE NOTEでライブを聴いた時に購入した、Hank JonesのSolo Pianoアルバム「Round Midnight」を選び、CDプレイヤーで再生した。このアルバムであれば、流れる音楽はエレガントで、美津子と尚子が好きなJazz Standardがたくさん入っているだけでなく、バイオリニストとして活躍する尚子の鋭い音楽的感性を満足させつつも、リラックスして真剣に深い話が久しぶりにできるだろうと、美津子が考えたからだった。今の時間であれば、子どもも夫もいない。美津子は家庭の役割から解放されて、尚子と落ち着いて友達同士の話がしたいとずっと願っていた。

まだ独身だった美津子の辛い人生の一時期を支えてくれた友達夫婦、早紀と誠司がとある事情で別れることになり、美津子は誠司、尚子は早紀の話をよく聴く立場になってしまった。美津子と尚子はもともと早紀の古い友達で、美津子は早紀の友達だったからこそ早紀には友達として捨てられたように感じ、誠司は配偶者として早紀に捨てられたと感じているという共通した「喪失感」だけで、美津子と誠司はどうにか繋がっているような状態だった。そんな折、コンサートのために尚子はたまたま飛行機に乗ってこちらへ来ることになり、多忙なスケジュールの合間を縫って、美津子と誠司それぞれに会って話をしてくれたのだった。
二人が別れるという話を最初に聴いてからどれほど時間が経ったのか、美津子は誠司の話を聴きながら、早紀にはきっと違う言い分があるはずだと思っていた。しかし、美津子の立場からは早紀の話を聴くことはできず、美津子はもどかしさを感じながら、早紀と誠司の関係がそうなってしまったことに対してあまりに残念で、悲しみに暮れるところがあった。早紀はきっと尚子には話しているだろうと美津子からは想像できたので、美津子は誠司の了解を事前に取り、尚子と聴いた話を出し合うことで、早紀と誠司の言い分を統合し、そのパズルの欠けたピースを埋めようとしていた。だからといって、壊れてしまった二人の関係を元に戻すにはあまりにも遅すぎて、美津子も尚子もただ納得するしかなかったのだが。

「きっと、美津子は、早紀のことも誠司のことも、二人とも大好きだから、辛いんだよね。」

尚子がかけてくれた言葉で、美津子は初めて、ずっと曇り空だった自分の気持ちが晴れ渡っていくような感じがした。
そして、美津子はようやく自分の言葉を紡ぐことができた。

「私は二人のような家庭を築きたくて、あの頃必死だった。
ようやく手にした幸福を得られたと思ったら、
あの二人が別れることになるなんて………」

一見すると、美津子は誤解されかねない立場にあったが、この件に関しては誠司の話を一方的に聴くしかなかった。美津子自身が実際どういう気持ちでいるかを話したことはなく、ただ「喪失感」を共有する者として、誠司には“私はあなたの味方です”と表明していただけだった。その方が、早紀と誠司が置かれた立場のバランスを取れたからというのもある。
美津子は早紀のため、二人が穏やかな家庭生活を送れることを心から願っていた。美津子が誠司とよく話をするようになったのは、この夫婦を支えるためだけだった。それは美津子にとって人生のローンを返すようなもので、早紀に頼まれたからこそだった。早紀は念願の仕事を手にするため、研修期間に入り、誠司と離れて暮らし始めたばかりだった。当時の美津子にはすでに家庭があり、早紀と美津子の信頼関係があってこそのことでもあった。
美津子は、誠司の力になることが、早紀のためになることだと信じて疑わなかったし、今の幸せな美津子の家庭生活が存在するのは早紀と誠司夫婦のおかげで、恩返しができるのならどんな形でもいいと思っていた。将来美津子の子どもが大きくなったら、美津子の家族と共に夏休みにコテージを借りて、サマーキャンプをする夢を、美津子と早紀と誠司は、かつてよく話していたほどだった。あと何年後に実現するだろうか、と。

早紀は長年夢見ていた職業にようやく就けたのに、誠司と離れて暮らし始め、その責任の重さと多忙さゆえに、夫婦ですれ違いが多くなったようだった。夫婦で一緒に生活できない職場環境の中で、時々こちらへ帰ってくる早紀の聴き役は、誠司ではなく、臨床心理士の資格を持つ美津子が当初務めていた。しかし、ランチを共にしたある日の別れ際に、早紀が放った棘のある言葉が、美津子と早紀を隔ててしまった。

「美津子はいいよね。
自分の子どもを育てられて。
愛と信頼を勝ち得ているんだよ。」

美津子は、早紀とは違い、家庭のために仕事を大幅に犠牲にしたので、自分が当初思い描いていたような職業には就いていない。そういう意味では、早紀は美津子と比べれば、時間こそかかったものの社会的に大きな信頼を得て、夢の職業に就けたのではなかったのか。そう美津子は感じずにはいられなかった。
そして、誠司が、早紀が念願の仕事で活躍することを結婚してからもずっと陰で応援しながらも、妻である早紀がこちらへ時間を作って帰ってくるのを切望し、自分の寂しい結婚生活をいかに言葉に出さないように気を付けているかを美津子はよく知っていた。だからこそ、美津子は早紀に「(自分の)子どもから離れて、友達同士で美味しい食事を共にしたい」という理由をつけては「こちらに帰ってこないか」と何度も伝えていたのだった。こちらに帰ってきた時、その誠司の愛情に、早紀は気づけなかったというのか。
早紀は大きな誤解をしている。しかし、美津子には、早紀のナイフのように鋭い言葉に突き刺されて、自分が二人のおかげで幸せな家庭生活を送っていることに罪悪感さえ抱き、何も言うことができなくなってしまった。

そんな詳細な事情を美津子自身が話さなくても、飛行機で我が家まで飛んできてくれた尚子は、早紀と誠司の夫婦と美津子自身の関係性から、美津子の気持ちを察してくれたのだった。
音楽に対してだけでなく、もともと繊細な感性を持つ親友の尚子だからこそ、美津子の気持ちにそこまで気が付いたのだろう。

「早紀と誠司は、憎しみ合って別れたんじゃないよね。」

元夫婦の二人についての話を終えた後、尚子は美津子にぼそっとつぶやいた。それは美津子にとって、救いとなる言葉だった。しかし、尚子の視点はもう一段深いところにあった。きっぱりと、そして静かな怒りを込めてこうも言ったのだ。

「でもね、あの二人が結婚した時、私は、早紀には誠司はいい男だなとは思っていたけど、いずれは別れると思っていたよ。
誠司に、早紀の繊細な機微がわかるとは思えない。
それこそを、早紀は誠司に求めていたのにね。」

尚子の話によれば、早紀は、ようやく時間を作れた週末に誠司のいるうちに帰ると散らかり放題だった家を片付けるところから始めなければならなかった。そして、充分に家事ができない自分を責めながら結婚生活を送っていたという。
まだ二人が結婚して間もなかった頃、美津子は新婚夫婦の二人の家にお邪魔虫のように入り浸りだった。早紀が仕事に就いていなかったその頃、仕事から帰ってきた誠司に対して、早紀は”私は家庭では何の役にも立たない”と寂しそうに話していたことを美津子は思い出した。新しい料理を創り出すこと一つもうまくできない、と。
それでも早紀は誠司のために毎年努力してお節料理を年末に作り続けた。
一体それは、何年続いていたのだろうか?
誠司はそれを、毎年誇らしそうに「今年は、これほどのお節料理になった」と、周囲に自慢していた。

なぜ、早紀が美津子ではなく尚子に話をし、誠司は美津子に話すようになったのか、それは何の違いなのだろうか?感性?価値観?育った環境?
どうしてその違いを早紀と誠司は乗り越えられなかったのだろう?
美津子にはそれが改めて残念に思えた。

早紀が仕事で活躍することを優先すれば、離れて暮らす誠司との結婚生活はどうしても難しくなってしまう。誠司は、早紀が手にした職業がいかに貴重か、その重責も多忙もよくわかっていて、共に暮らすことが難しい中でも早紀との結婚生活に希望を見出しながら今までやってきていた。共に暮らす、時空間を共有するということだけが結婚生活であるならば、早紀にはとても辛かったはずだ。しかし一方で、早紀を支えるためだけに「ただ待つ」という誠司の想いと家庭生活での期待の重さを、早紀はかえって辛く感じていたのかもしれなかった。誠司には、誠司の幸せにこそ、その時間とエネルギーを使ってほしい、と。

「あの二人は、どちらもお互いの幸せを願うために別れたんだね。」

美津子は、そう尚子に言い、距離を取ってお互いを思いやり、愛するという二人の夫婦愛の深さについて言及するにとどめた。
Hank Jonesのアルバムは最後の曲「In a Sentimental Mood」で、美津子と尚子のいる部屋には、凛としたピアノの音が切なく響いていた。

(本文ここまで:3800字)


矢作直樹さんという救命救急医の「見守られて生きる」(幻冬舎、2015年)「おかげさまで生きる」(幻冬舎、2014年)という書籍を何年か前に書店で見つけて立ち読みしたことがあります。他の書籍はほとんど読んでいませんが、今年ちょっとしたご縁を感じる出来事があり、図書館で借りて読み直しました。

距離を取ること。それは愛であり、愛とは「思いやり」そのものです。
思いやりは相手の要求を何でも叶えることではない。
時には謙虚な気持ちと共に相手のことを考え、適当な距離を取ることも厭わない。これが本当の思いやりです。人にとっても、国にとっても、距離を取ることは大切。

矢作直樹「見守られて生きる」(幻冬舎、2015年)

それを基に、愛があるからこそ別れたある二人の物語の創作に挑戦してみました。登場人物はすべて架空です。
「離婚」というとネガティブなイメージがありますが、実際にはいろいろな事情があり、ネガティブな側面に限らないのではないかと、個人的には周囲を見ていて思うことがあります。
私たち夫婦はその選択をしていませんが、現実には知らないだけで、相手の幸福な未来を想うがゆえに別れることも、別れたからこそ未来に掴む幸福もありそうだと想像し、今までにない長い文字数の物語記事にしてみました。

初挑戦ですので、戯れに読んで頂ければと思います。



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