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『遅いインターネット』(宇野常寛)を読んで

2010年から数年間はTwitterへの期待がすこぶる高かった時代と認識しています。テレビとインターネットの融合、動員の革命、アーキテクチャの生態学だとか、いろんなキーワードがあって。津田大介さん、濱野智史さん、そして著者の宇野常寛さんの本はチェックしていました。

そういえば3.4年前、宇野さん主宰のイベントで初めて猪子寿之さんや落合陽一さんを知りました。落合さんは出張先の香港から中継でしたが、(当時そこまで知名度は無く)抽象度の高いレベルのお話をマシンガントークで喋り続けていて、ただならぬ雰囲気を漂わせていました。

さて中身なのですが、とくに3章はおもしろく読みました。21世期の吉本隆明論。そもそも自分にとって、吉本隆明の思想が何かというとピンときていないんです。

糸井重里さんが師と仰ぎ、なんどもご自宅へ伺ってお話していたと聞きます。対談本『悪人正機』は読んだっけ。ほぼ日には吉本隆明の講演データがすべてアップされていると知りながらも、手は出せていません。なので、メモをしながら読みました。

吉本隆明の「自立」

吉本隆明の重要なテーマの一つが「自立」です。20世紀の「幻想」によって人は戦争という過ちを犯してしまった。そして戦後、価値観がガラッと変わり、戦後民主主義に安易に流れることを批判します。

実際、吉本隆明の自立の思想は、60年代の人々にとって自己正当化の論理として影響を与えたといいます。

で、戦後民主主義やマルクス主義からの自立!といってフタを開ければ、日本的な会社のなかで、仕事とささやかな家庭を守る。中流サラリーマンたちはそうして「埋没」していきました。もちろん、その直線上の努力が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を導きました。ただそれは脆さをはらんでいました。

丸山眞男的にいえば「無責任の体系」であり、それは主体性のないボトムアップの「空気」に他なりません。吉本隆明はそこに自覚的であり、一つの方法として80年代、消費社会に可能性を見出し、自立プロジェクト(雑誌ananに全身コムデギャルソンで出たり)を実践します。

ほぼ日論

ここで糸井重里さんの「ほいしものが、ほしいわ」であり「おいしい生活」とリンクしてくるわけですが、著書によれば、

「ほぼ日」こそが吉本思想の、それも80年代の吉本が唱導した自己幻想の強化による「自立」の実践なのだ。

ここで吉本隆明と糸井重里がつながるのかあ、ふむふむと読んでいました。「共同幻想」が情報社会と読み替えできる話から始まりますが、後半は「ほぼ日」論です。

モノへの回帰

著者は、現在のEC化した「ほぼ日」について、あえてコトからモノへの回帰と言います。それは情報社会からのほどよい距離感を取れるからだろうと。

一理あるのだと思いますが、個人としては『D2C』を読んでからは世界観づくりを目的とした場合、手段として手ざわりのあるモノが必須になるだろうと見ています。ほぼ日はそこに自覚的であるとも読み取れますし、世界観つくりたい→モノ→付帯としてコトが発生する。

排他性とファン

「ほぼ日」のコトが練り込まれた商品に対して一般論として価格が高いことを挙げ、対象がある程度の層にとどまることを指摘しています。それは射程の短さであると。

ここも読みながら考えていて、この射程の短さは、特定ファンとのコミュニケーションとらえれば、まさしく遅いインターネットであり、ほぼ日の戦略になるのではないかなとも思いました。

もちろん、ほぼ日はメディアとして大きい役割を果たしており、両立のむずかしもあります。(かつて糸井さんがおっしゃった「出入り自由の宗教」という意味で、自分はリスペクトしています。)

たしかに4章でもあるように、ほぼ日には特定のプロジェクト(ほぼ日の学校)などありますが、いわゆる会員として囲い、ナンバリングするようなコミュニティは持っていない。あえてゆるくしていると見ています。

著者のいう政治的な態度表明は必要に応じて行う。ここに自覚的で意思を持つことが、「自立」につながる第一歩と理解しました。リテラシーをまず上げ、徐々に遅いインターネットの場で、しっかり書く。それは、ほどよい距離感と進入角度を試行錯誤し続けること。

いろいろと考えさせてくれる一冊です!というわけで以上です!


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