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性別適合手術(SRS)を受けて一年が経った、何もめでたくはない。

2020年2月6日、私はタイのガモン病院でSRS手術を受けた。
ただ、麻酔から目が覚めて様々なことを認識したのが2月7日だから、個人的には2月7日をオペ記念日としたい。大してめでたくはないけど。

そんな私が今思っていることを、何となく書いていきたいと思う。好きな音楽のこととかを混ぜながら。

未だに思う、治療もするしオペもするけど、そっと黙って男として生きていれば良かったのかと。

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私が様々な治療や医療的な診断等に向けて動き出したのはちょうど3年くらい前だった。
けれどもそれまで我慢していたという感覚は無くて、逆に私自身の中では、性別に対する違和感の意識があったからこそ、男性として生きることを楽しめていたのかとすら感じている。しかしながら、身体的な違和感はどうにもならなくて、普通の男としては生きられない、そう気づいてしまったときに、急いで自分の中の男性ジェンダーを消してしまおうとしてしまったのかなと、今となっては思う。

でも、じゃあずっと気づかないふりして、自分でも勘違い甚だしい「男性像」のジェンダーに迷い続けていれば良かったのか、それにも多分限界はあっただろうと思うし、周りからも自分のことを男だなんて思っていないとか、男とは思えないとか、そういうことも言われていた。
でも、結局は何をやっても何も疑うことなく男性として人生を楽しんでいる人たちへの、羨ましいという気持ちと、身体的な様々な苦しみも少なく自由に生きれる姿に、強い嫉妬心を抱いてしまうことは未だに変わらない。でも、少しだけ違うことは、私にはできなかった夢物語って思いながら、より今の人生に直視することができるってことかな。

そんな感じで生きている私だけど、あの時男として生きることをそれなりに楽しめていた私を、きのこ帝国というバンドの「東京」という曲を聴くと、今の自分と対比させてしまって、すごく涙が出てしまう。
「まだあなたの心のなか 他の誰かがいるのだとしても 星のないこの空の下では 気づかないふりして隣にいたい」
この歌詞を聴くたびに、あの頃の自分に寄り添ってあげたいなって、そんなことを思ってしまう。気持ち悪し怖いけど。そんなあなたは当時東京に住んで仕事をしていたよな。東京にいるときに川崎のフェスできのこ帝国に出会って、熱狂したんだよな。寂しい時に聴いていたんだよな。

何が本物で、何が偽物とか心底どうでもいい。そんなことを議論したがるやつがリベラルなんて名乗るな。

以前このような記事を書かせていただいて、すごく話題になったし、すごく賛同の声も頂いたし、それなしの反対や批判の声も頂いた。

私自身は心の性別とか性自認なんて、今となっては全部でたらめでしょって思うくらいに信用していないし、「トランス女性」なんて誰でも名乗れるし、性同一性障害の診断書なんてお金出せば即日書いてくれる医者だっている。

だから、もう誰が本物の「トランス女性」なんか私にはどうでもいいし、正直、狂信的に私の記事を評価して賛同してくださって、色々と宣伝してくれた人やサポートしてくださった方がいたけど、けれども私にはすごく怖かった。トランスパーソンそのものを過剰に否定したりとか、だれが本物で誰が偽物だとか、正直私は議論に値することですらないと思う。

そもそもさ、何が「正しい」とか「間違っている」とか、「正義と悪」とか「本物のトランス」と「偽物のトランス」とかそんなことを区別して、選り好みしたい人間ばっかりなんだろうなって、そんなことを思うようになった。
正直に思う、そんなことを分別したい人間がリベラルなんか名乗んなよって、自分が選り好みして、救われるべき人と救う必要がない人と区別して、勝手に可哀想な人のレッテルを張り付けて、自分は可哀想な人を救済する人、そんなのただの傲慢じゃん。やらない善よりやる偽善とは言うけど、もはや偽善ですらないじゃん。そんなのリベラルを自称している方々が嫌うレイシストと大差ないよ。

正直私は今自分自身のことを完璧な女なんて思えないし、そもそも女を自称することすらおこがましいことにすら思っている。沢山の体の苦しみを味わいながら、その性で生きることを受け入れている人を差し置いて、自分は女なんて声高に主張するなんてどうやっても私にはできっこないよ。少なくとも私自身は「偽物の女」だと思っている。
ただ、私のことを本物の女だと思おうとも、本物のトランス女性と思おうとも、偽物の女性やトランス女性と思おうとも、そのことを思うこと自体はすべて受け入れたいとも思う。

本音を言うと、所詮私が手術を決意した理由なんて、大好きなきのこ帝国がバンド活動の音沙汰もない状況で、2019年の5月に活動休止を発表して、何事にも終わりが来てしまうって思って、じゃあ見たいバンドは見れるうちに見ておきたいと思ったし、何なら身体的な違和感がない状態で、大好きなバンドを生で見ておきたいって、そう思ったからに過ぎないんだけどね。けれどもコロナ禍で未だに手術後にコンサートになんて行けていないけど。

トランス女性とかトランスジェンダーとか誰だって名乗ることは自由だよ。でもさ、

正直、私自身はトランスジェンダーとかトランス女性という存在、今はとても嫌いだ。
どう頑張って逆立ちしようとも、私と女性の身体的な違いなんて誰にも埋め合わせることなんてできない。その苦しみを理解しようとはできても、それ自体を体験して知ることなんてできない。だからこそ、男女を過剰に比べることなんてできないし、苦しみの程度すらもわからない私には、男女の苦楽を対比することすら全く無駄なことに思えている。

けれども、法的に女性として過ごしている人の中ですら、自分の体験でしか比較できないというのに、ご立派に女は恵まれているとか、女は楽に生きられるという人がいて、すごく私には嫌悪感を覚えてしまう。
男性として生きていた時のあなたの苦悩は確かに尊重されるべきだと思うよ、けれどもだからと言って女性の苦悩を侮辱することは違うでしょう、そんなことを言うから、私たちのことに嫌悪感を覚える人が沢山生まれるわけだし、そんなミソジニーじみたことに執着していても幸せになれるとは思えないよ。今私が幸せ、それだけで十分じゃん。

また、多くのトランスパーソンの中に、正しいとか間違っているとかでトランスを区別したり、トランスということに対して正当なのか間違っているのか分別つけている人にもすごく寂しさも覚える。
身体的な違和感由来でオペして、未だに男として生きることに未練じみたこと思っている私みたいな人間もいるし、逆にトランスであるという自覚から、法的な性別上の人生を受け入れて楽しんでいるという人も実際に私の友人でいる。色々なことを思うと、もはや誰がトランスだと名乗ろうともそれは自由なのではないかと思う。

ただ、だからこそ、そのトランスを名乗る側の性別に対して、ちゃんと尊重心を持ってほしいと思う。音楽だってスポーツだって、誰でもファンを名乗れるけど、名乗ったからには、それなりにはその存在を尊重したほうがいいと思うし、名乗る以上、あなたがその人たちの評判すら背負うことにもなるんだよとも思う。ただ、私も同じことをちゃんとできているかは自信がないし、私のせいで評判を傷つけられた存在もあるとは思っている。

どんな性別で有ろうとも、どう生きていようとも、少なくとも私が今も生きているのは音楽のおかげ。

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昨年オペする前に、私は東北地方に旅行をした。私の人生にいろんな決断を後押ししてくれたのは音楽だし、コンサートを見ながら思ったことでもあるから。

2017年の夏に、すごく自殺願望が強くて、私は死ぬ前に最期に見ておこう、そんな気持ちで青森に行った。その青森のライブハウスで、大好きなバンドとそのバンドが好きなファンたちに囲まれている中で、生きていればまたこんな素敵な光景が見ることができるのかなぁって、そう思ったし、その場でたまたま仲良くなった人もいたし。

その冬に、仙台のライブハウスに行ったとき、身体的な違和感が苦しくて、気持ちが塞いだまま見た大好きなバンドのステージを見たときに、どんな姿でも生きていれば、なんとかなるのかなってそう思わせてくれて、未だに正解だったのか悩んでいるけど、性別移行することを決断させてくれた。でもそのおかげで、少しだけでも違和感自体は緩和できたし、よりちゃんと自分ってものを見つめられたのかと思う。

そんな思い出の会場を眺めに行った。私の命を救うことになった、青森Quarterという場所を目的地として。そしてその場所についたら、あの日のセットリストのプレイリストを聴きながら、これからの自分を考えたり、あの日の思い出を思い返したり。そして死ぬために飛び込もうとしていた海すらも眺めながら。
そんな気持ちと似た気持ちで仙台にも行った。

その旅行の最後に、その日の一か月後に手術することを決断させてくれた歌を歌っている方も、青森で私の命を救ってくれた歌を歌っている方も急遽出演するコンサートを見に行った。死にたくて仕方がないと思う経験もした、あの日住んでいた東京の街で。弾き語りだったけど、いい歌が聴けて本当に良かった。私の命を救ってくれた確かな歌たちだったと思えた。そして今のところそのコンサートが私の行った最後のコンサートだ。

そんな、青森で私の命を救ってくれた歌を歌っているのは、ストレイテナーというバンド。あなたとあなたたちのファンがいたからこそ、私は生きています。

手術してから一年、何もめでたくもないけど、でも平穏に生きていられることにはありがとう。

沢山の本やネット記事や、テレビ番組とかで私みたいに性別を変える選択をした人に対して、頑張ったねとか、手術したり法的な性別を変えたことに対して、おめでとうとか、良かったねとか言う言葉をかける人が沢山いる。けれども、私自身のことに対しては、特にめでたいことでもないと思うし、尊く思われるものでも、賞賛されるべきことでもないと思う。
けれども、この選択によって自分自身を見つめて、様々な選択ができていることは確かだとも思う。

だからこそ、昨年手術を受けることができて今でも本当に良かったと思うし、そのために行ったタイという国で、沢山の好きなことが見つけられたし、たまたまタイドラマブームが帰国してから始まって、沢山の情報と共にタイに居た日々を思い出せるし、好きな作品のロケ地が病院の近所で、私もその場所に行っていたという奇跡もあった。
それ以外にも、タイにも沢山の好きな音楽が生まれたし、そんな経験だけでも私が手術を受けたことの価値でもあると思う。また、タイにいるときに、辛い気分になったとききのこ帝国やストレイテナーの曲を聴いたこともあった。

今私がこの選択で生きていること、本当に合っているのかなんてわからない。けれども、少なくとももう一度ライブハウスで見たいものがあるから、やっぱりまだ生きていたいと思うし、せっかくそういう想いのために手術したんだから、ちゃんとコンサートを見ておきたいし、タイに居たときから好きになったタイの音楽も、コンサートとして見ることができたらと思っている。
折角こうやって決断して、生きてこれたんだから。

また、いまハマっている「千星物語」というタイのドラマがある。このドラマの主人公は心臓病を患っていて、心臓移植でなんとか生き延びてしまった中で、その心臓のドナーに想いを寄せて、自暴自棄だった自分の命にもう1人の命が宿っている事を胸に、ドナーが果たしていた使命にも向き合っていく、そんな物語だ。
これを見ていると、たくさんの音楽と当時の私自身に救われた自分自身を、やっぱり大切にしてあげたいと思うし、もっと胸張って、あの時の自分と今の私が肩を並べても恥ずかしくないようにと思うのだ。




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