性別のことを「ジェンダー」と言わないで。

性別のことを「ジェンダー」と言わされるようになったのはいつからだろうか

27歳の私が中学、高校の頃からだっただろうか

私は性別のことを「ジェンダー」ということに反対する

「ジェンダー」なんて彩ったって、それぞれの性別の苦しみも、インターセクシャルの人々の苦しみも、無くなるとは思えない

本当に苦しんで声を上げる人々のことを、「ジェンダー」だなんて彩って、助けなければいけない可哀想な人々と軽蔑して、優越感に浸るのが平等なのだろうか

「私はあなたのことを理解していますよ」そんなふりをして、苦しんでいる人の口を塞ぐのが平等なのだろうか

その人それぞれの体に起こる苦しみを、わかったふりをして、軽々と踏みつけることが「理解」なのだろうか

私は1年前に手術をして、法的な性別を男性から女性へと変更した

けれども、見た目だけは女性っぽくあろうとも、身体は男性だ

女性の身体に起こる苦しみ、それを味わうことは決してできない

周囲からは「女性」として身体の部分も気遣ってもらえるけど、その気遣いが無意味なことも多くある

それ故なのか、また違う理由なのかはわからない、けれども私から「女性」を名乗ることはしたくなくなった

いやむしろ、名乗らなくとも「女性」であるから、そもそも名乗る必要なんてないと言えばそうなのかもしれない

けれども、法的な存在として以外は、私が「女性」である証明なんてどこにもない

むしろ他人から見られる性別なんて、本当にどうでもよくなってしまった

どれだけ「女性」なのか「男性」なのかを測ることすら、本当に馬鹿馬鹿しいことだと私は思ってしまう

真実が身体にあると言われて、私を「男性」としても、それは仕方がないことにも思う

ただ、男性の身体であることから逃げた人間が、本当に「男性」と表現していいのかさえも、人によるのかもしれない

だからこそ、「ジェンダー」というものが嫌いだ

考え方や脳の思考だとか、服装がどうだとか、社会役割がどうだとか、無駄に男女で区分する必要があるのだろうか

確かに身体的な役割として、それが思考に与えるものはあるかもしれない

けれども、過剰に男女を区分して、違う性別に対して羨んだところで何になるのだろうか

その男女の区別を乗り越えて、その無駄な規範に苦しむ人を踏みつけて何になるのだろうか

身体の作りから違う人に対して、無理やりに自分も同じだと認めさせることに何が意味があるのだろうか

経験できないが故に分かり合えないってことを、なぜ無理やり分かった気分になろうとするのだろうか

わからない、だからこそお互いに気遣い合おうってことは、考えてはいけないのだろうか

身体の違いで分類されることを、なぜそこまでして否定する必要があるのだろうか

性別という概念から言えば、私は正常でありながらとんでもないエラーなのだと思う

でも、身体からエラーがある人に対して、その苦しみを、性別の意味合いをすり替えることで、無いことには間違いなくできないと思う

実際に「ジェンダー」によって苦しんでいる人に対して、その「ジェンダー」を変えればいいだなんて言説すらまかり通ってしまうから、「ジェンダー」って性別を表す言葉としては無意味に思う

「ジェンダー」を変えたところで、その身体に与えられた性別ごとの苦しみは、無くなることはないと思うからだ

だからこそ私は、「性別」のことを「ジェンダー」と呼ぼうとすることは、とても狂っていて恐ろしいことだと思う

だからこそ、「性別」のことを「ジェンダー」と言わないで。





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