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最初の人工パンデミック 1977年H1N1 ソ連風邪

*この記事の筆者はウイルス学や生命科学の専門家ではありません。このため記事における科学的見解は、すべてトピックを主題とする論文の引用であり、独自の観察に基づく意見は一切含まれていません。

SARS-CoV-2の研究流出説が取り沙汰される中、同様の、そして恐らくは歴史上最初の人工的なパンデミックの例として1977年のH1N1インフルエンザ(日本での通称「ソ連風邪」)が注目を浴びています。

このウイルスの起源については日本語でよくまとまった記事・文献が2021年8月現在ほとんど存在していませんが、英語圏では様々な研究がなされ、多くの学術論文が発表されています。

本記事では冷戦期の東側から発生したH1N1の具体的な起源についての説明と、それに対する西側の反応の変化、そして人工起源が定説として受け入れられる経緯を紹介します。

1977年、H1N1パンデミックの経緯

1977年に現れ世界に広がったこのインフルエンザウイルスは、ソ連が最初にWHOヘアウトブレイクを報告したため、英語圏ではロシアンインフルエンザ(日本名:ソ連風邪)と呼ばれました。

なお時間軸上はソ連に先立つこと1977年5月に、中国の天津、遼寧省および吉林省で最初にアウトブレイクが起き、ウイルスが分離されています。当時の中国はまだWHOに加盟していなかったため、最初に報告したソ連の名が冠されました。

同インフルエンザは1977年末にはイギリスへ渡った後、翌1978年1月にアメリカへ到達。学校や軍の宿舎で大流行を起こしました。

このウイルスの不思議な点は流行が若年層のみに限られたことで、26歳以上の大人の間ではほとんど感染が見られませんでした。感染からの全年齢を通じた死亡率(IFR)は10万人中5人と低かった一方で、26歳よりも若い層では高い致死率を記録し、最終的には世界で70万人が亡くなりました。(比較すると、2009年の新型インフルエンザパンデミックによる死者は、推定で28万人とされています。1977年当時の世界の人口が42億人だったことを踏まえると、決して少なくない犠牲者を出したパンデミックだったと言えるでしょう。)

上述の不可思議な点は流行当時から注目を集め、1978年の論文でこのウイルスの抗原特性が1950年代に流行したH1N1株と極端に類似していると指摘されています。若年層に被害が集中するという特徴も、即ち中高年はすでに免疫を獲得済みのウイルスであることを示唆します。

一般的にH1N1を含むインフルエンザウイルスは変異のスピードが早く、通常は人間への感染を数十年分のサイクル繰り返すと、そのゲノムに相当の量の変異が見られます。

しかしこの1977年H1N1は、1950年頃に流行していたウイルスからほぼ変異の痕跡がないため、何らかの特殊な要因で人間界から姿を消していたのでなければ説明がつかないことが、当時から指摘されていました

上の1978年の論文では、「宿主の野生動物が自然の中で凍結されて保存されていた」可能性などを仮説として提示していますが、研究所流出の可能性については触れていませんでした。

2009年新型H1N1をきっかけに再度脚光を浴びる

その後2009年に新型のH1N1インフルエンザが世界で大流行したことをきっかけに、1977年のH1N1も研究が進み、この時期多くの論文が出版されます。

1977年当時は存在しなかったゲノム解析などの技術により、場所は特定できないものの、研究所からの流出しか説明する方法がないと考えられるようになります。

2021年現在、このウイルスの起源については大半の専門家の間で人工流出であると広く合意されています。SARS-CoV-2が自然発生だとする学者、反対に研究所流出だとする学者の双方が、1977 H1N1については人工起源であると意見を共にしています

2021年現在、1977 H1N1が自然発生だと考えている専門家は、確認できる限り存在しません。いくつか専門家の言及を紹介します。


トレバー・ベッドフォード
フレッド・ハッチンソン癌研究センターのワクチン・感染症部門准教授。ベッドフォード博士はSARS-CoV-2については、自然発生・研究所流出のどちらもあり得るという立場です。

「最近のインフルエンザパンデミック4つ(1957年 H2N2、1968年 H3N2、1977年 H1N1、2009年 H1N1)のうち1つ(1977年 H1N1)は疑いの余地なく研究所が起源だ。研究所の事故は本当に起きる。」


リチャード・エブライト
ラトガース大学理事、化学・生化学教授。SARS-CoV-2については、2020年1月から研究所流出を疑っています。

「全員ではないが、ほとんどの研究者は、1977年のH1N1インフルエンザパンデミックはソ連か中国の研究所からの流出だと結論づけている。


ヴィンセント・ラカニエロ
コロンビア大学の免疫学・微生物学教授。ウイルス学の主要な教科書である"Principles of Virology"の著者でもあります。ラカニエロ博士は機能獲得研究の推進者の1人であり、SARS-CoV-2については研究所流出説を強硬に否定しています。

ラカニエロ博士のブログに1977 H1N1の起源についての以下の投稿があります。

このウイルスは、研究室の冷凍庫で1950年から凍っていたが、意図してかせずしてか、1977年に流出した。この可能性は中国とロシアの科学者によって否定されてきたが、それでも今日現在、(訳註:研究所からの流出が)科学的にあり得る唯一の説明である。

SARS-CoV-2の起源について意見を異にする科学者たちも、1977年H1N1の起源については同じ見方をしていることが分かります。


1977年に何が起きたのか

2015年、ジョンズ・ホプキンズ大学のジジ・グロンヴァル博士らは、mBioに掲載された論文で、なぜ、どのようにして研究所からウイルスが流出したのかについて詳しく検討を行いました。

ここでグロンヴァル博士らは流出の原因について以下の3つの仮説を提示しています。

1. 意図的なウイルスの放出
2. ワクチンのヒトチャレンジ治験
3. 研究所での意図しない事故

1. 意図的なウイルスの放出

このH1N1ウイルスは1950年序盤以降に人間社会から一度姿を消しているため、その後に生まれた26歳以下の若者のほとんどは免疫を持っておらず、再流行時、最も大きな影響を受けました。

特に若者が多い軍学校における状況は深刻で、アメリカ空軍士官学校では1978年2月に3,280名いた士官候補生の76%が発症し、同校の歴史上初めて全ての授業や訓練が中止されるまでに至りました。

このため、もしH1N1ウイルスが敵軍の動きを止めるための生物兵器であれば、一定の役割を果たしたことになり、意図的な放出説の説得力も高まります。

しかしながらグロンヴァル博士らは、当時のソ連の生物兵器製造部門バイオプレパラトは、ペスト菌や野兎病菌などより病原性が高い病原体を扱っており、H1N1のような弱毒性のインフルエンザを扱っていた可能性は低いとしています。


2. ワクチンのヒトチャレンジ試験

次の仮説は、弱毒化されたウイルスを生ワクチンとして接種する治験が、予期せぬ流行に繋がった、というものです。

1962年から1973年の間にソ連は合計8回の生ワクチン治験に約40,000人の児童を動員した記録が残っています。また中国の北京ワクチン血清研究所でも、同時期に生ワクチン治験を行なっていた記録があります。さらには1977年に旧ソ連のオデッサ(現ウクライナ)でH1N1の生ワクチンを大量に製造していた記録も発見されています。

技術の発達が未熟だった1940年代には、生ワクチンが病原性を獲得して流行につながったケースは多く、1977年のH1N1に同様のことが起きたと考える蓋然性は高くなります。

さらに1977年H1N1ウイルスは高い温度への耐性が低く、この特徴は研究室で生ワクチンを作る際の基本的な特徴でもあるとされています。

またこれらの記録とは独立に、中国医学科学院の院長だったウイルス学者のC.M.チュウが、アメリカのピーター・パレーゼ博士(マウントサイナイ医科大学教授)への個人的な書簡で、1977年に数千人の軍人を募ってH1N1の生ワクチン治験を行ったと述べています


3. 研究所での意図しない事故

最後の仮説は研究所からの事故による流出で、それまで多くの研究者によって検討されていたものの、グロンヴァル博士らはこの仮説には否定的です。

1950年のサンプルと比較して不自然なまでに変異が少ない点、および熱への耐性の低さといったウイルスの特徴から、研究所が起源であることは疑いようがないものの、場所が離れた3つの中国の都市(天津、遼寧省および吉林省)で同時にアウトブレイクが起こっていることから、単一の事故に基づく流出ではない、と博士らは述べます。

これらを検討した結果、2のワクチン治験の失敗が最も可能性が高いと論文は締めくくります。


1977 H1N1がSARS-CoV-2の起源について示唆すること

機能獲得研究をテーマとする医療歴史家で医学博士のマーティン・ファーマンスキー氏は、1977年H1N1について当時の西側の科学者たちは、中国かソ連の研究所が起源であるとすぐに察知していたものの、国際インフルエンザ監視システムにおける中国・ソ連との協力体制が損なわれることを厭い、人工起源説にこっそりと蓋をし、さらに研究事故へ注意喚起することもしなかった、と厳しく批判しています。

またファーマンスキー博士によれば、1977年H1N1が研究所起源であると論文で語られるようになったのは2008年からで、30年以上の時間を要した点、さらに博士が批判を寄稿した2014年時点でも、一般社会における人工起源の認知はほぼゼロであり、今でも米欧の科学者たちはロシアや中国に恥をかかせ(結果として共同研究ができなくな)ることを恐れ、なるべく触れないようにしている、とまで指摘しています。

ファーマンスキー博士は他にも同寄稿においてさまざまな研究所を発端とした流出事故が一般社会に十分注意喚起されていないことについて批判を続けます。

1995年にコロンビアで300人の死者を出した中南米一帯でのベネズエラ馬脳炎ウイルスのアウトブレイクは、不十分な弱毒化を通じたワクチンによって引き起こされた可能性が非常に高く、また同ワクチンは1938年から1972年にかけて、および2000年にもアウトブレイクを起こした可能性もあると指摘。こちらも科学者の論文では議論が行われている一方で、一般的な認知はほぼ皆無と言って良い状況です。

さらに2003年12月に台湾の研究室からSARSが流出した事例では、感染した科学者が、事故が発覚し所属組織が批判されること恐れて病院へ行くことを拒み続けた例なども紹介されています。


このように表立って判明している研究所流出事故のケースの大半で、十分な科学的証拠があっても事故の可能性を覆い隠す、同業者への批判を恐れて発言しない、自らが感染しても病院へ行かずに隠そうとする、など、研究者たちの隠蔽体質が露呈しています。

今でこそ自分で興味をもった素人が根気よく調べれば情報を見つけることができるとは言え、研究所流出事故が数十万人もの命を奪ってきた事実が十分に公衆に知らされているかと言うと、首をかしげざるを得ません。

当然の点として科学研究者も所詮は人間であり、聖人君子であることを期待すべきではありません。助成金を失うなどの懲罰に繋がる可能性がある事故を隠そうとするのは、残念ながら人間として自然な動機です。

だからこそ、SARS-CoV-2の起源についても、研究所流出説を頭から(調査の必要性さえも)否定している研究者の言説については、私たちも額面通りに受け取るべきではないと言っても過言ではないでしょう。


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