見出し画像

想像力とか、表現とか、生きることとか


26歳になった。といっても特に何があるわけでもないのだけれど、コロナで人と話すことが減る一方、色々読んだり見たりして考えることは増えたので、この機会に書きつけてみる。直接でもオンラインでも誰かと話すときに、ちょっとした種になるといいなという思いもこめて。

それぞれの10年

震災から10年ということで、テレビやラジオや記事などで色々な特集をしていた。今年は“グラデーション”を特に感じた。
津波で親を亡くした子どもの10年、原発事故でいまだ故郷に帰れない人の10年…そこには、どうしようもなく重いけれど向き合わなければならない現実が、過ぎ去ったものではなく、あの日から続いてきて“今”まで存在している。
一方で、今だからこそ震災の時お世話になった人に感謝を伝えたいという被災地の人たちや、当時被災はしたものの家族や家をなくしたわけではなく自らを“被災者”ということに違和感を覚える人たち、被災者ではないけれど(被災者でないからこそ)地震のことを物語などで表現しようとする人たち、彼らの思いも今まさに存在するものなのだと感じた。

画像1

(2015年の春に初めて陸前高田を訪れた。震災から今まで、沿岸部の景色は刻々と変わっている)

生と死と想像力と

人が生きるか死ぬかというギリギリのところに多くの人が目を向けざるを得なかったのが、10年前だったと思う。
時が経って忘れてしまいがちだけれど折に触れて思い出したいなと私個人が思うのは、その生と死の感覚かもしれない。死を意識することで生の意味が自ずと立ち上がってくる気もするから。
身近な人を亡くした人の気持ちを“理解できる”なんて到底言えず、想像するくらいしかできない。でも、その想像をやめたくない。

それでも表現すること

当事者ではない人が、表現することに“怖さ”を感じながらも表現することで、誰かにその思いが届くと信じたい。
被災地の高校生が、当時は幼くて記憶に薄い震災について、地域の人への取材をもとに演劇で表現する活動の話を聞いた。単に聞いたことをそのまま伝えるだけではなく、知って自分なりに落とし込んで自らひとつの形として表現することで、震災に関わる人たちが多面的・立体的に浮かび上がってくるという。
とかく“わかりやすさ”を求めてしまいがちになるけれど、単純なストーリーにすることでこぼれ落ちるものをちゃんと拾いたい。そのために、自分もいろんな形での表現を試みたいし、いろんな人の発信を吸収したい。

画像2

(去年仕事で訪れた被災地の一つ、宮城県亘理町。ここを故郷とする家族の物語、私は描き切れていただろうか)

他人の靴を履いてみる

想像をやめないというのは、震災のことに限らない。
例えば貧困などが絡む様々な問題についても、その人を責めるのではなく、どうすればその人たちが社会とつながりを保てるのか、相手の靴を履いて考えたい。
そんな取材をしたあとに東京の友人と話すと、当然だけれど生きる世界の違いに呆然となる。どうにかして、その分断に細くていいから橋をかけたい。

地方とふるさとのこと

震災の番組などを見ながらもう一つ思い出したのは、“地方”や“故郷”のことを考え出したのも被災地に行ったことがきっかけだったなということ。
学生の時に東北の人たちと話して、彼らの中での“ふるさと”というものへの思いの強さを感じたし、京都で育った自分の中にもある程度存在することを自覚した。一方周りの人の中で首都圏などで生まれ育った人たちは比較的その感覚が薄いことも感じた。一概には言えないが、東北は特にその色濃さはあるのかなと思った。
生まれ故郷が突然姿を変えたり、そこにいられなくなったりすることの痛みは、その後学生団体で難民問題の普及活動をしていた時にも通じるものを感じていた。
何にしろ、土地と人との結びつきについては、被災地を訪ねてから意識のどこかにあった。

画像3

(京都の実家から見た、今年の初日の出。京都は私の帰る場所であり続けてくれる)

地域で生きることと身体性

コロナ禍で地方に注目が集まったり、転勤先の北海道で地域に根ざして活動する人に出会ったりする中で、生まれ育った場所にかかわらず様々な地域への関わり方があることを知った。
その中でひとつ感じたのは、そこで生まれ育ったにしろ大人になってから選んだにしろ、自分のアイデンティティとその地域が深く結びついているからには、その場所でまずは自分が豊かに生きよう、なんなら他の人も楽しいと感じる土地にしようという“意地”のようなもの。
さらに、都会よりも地方で感じるのは、そこに“いる“こと、自らの身体で感じること、身体を使って動いたり他者とふれあったりすることの意味の大きさー“身体性”とでも呼べそうなもの。これはコロナでオンラインが普及したから、ますます感じるのかもしれない。
まだもう少し北海道にいるので、その辺りも紐解いてみたい。

画像4

(北海道に来てから、地に足をつけて生きる人たちとたくさん出会えた。これからもよろしくお願いします)

読んだり見たり聴いたり

最後に、上に書いたようなことを考えるきっかけになった本などを並べておく。

最近読んで目を開かされたのが岡本太郎。「死があるから生が輝く」とか「人は根源的に表現したい欲求があり、表現と生きることは不可分」ということを思わせてくれた。

福島の高校生と埼玉の高校生が演劇を通して震災と向き合う話は、荻上チキのラジオで聴いた。最近このラジオの音声配信を聴きながら通勤することが多いけど、発見がたくさんある。

わかりやすさを求めたときにこぼれ落ちるものにちゃんと目を向けることについては、岸政彦「断片的なものの社会学」を読んだ時から、ふとした瞬間に思うことが増えた。

「他人の靴を履く」という言葉は、ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」で出てきてまさにこれだ…と思った言葉。

あとは放送が終わったテレビなので、再放送や見逃し配信があればぜひという程度ですが…

あの日から今まで、地続きでつながっている重みや、故郷について考えさせられた番組たち。

グラデーションのことや、色んな立場の人が表現することについて思いを巡らせた番組たち。

書いてみても、書ききれないことがあったり、まだモヤモヤするものはあったりするけれど、ひとまず現在地の記録として残しておく。
次は仕事としても、誰かに意味ある形で届くものを作りたい。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?