映画「グリーンブック」 問題は人種差別ではなく偏見と弱さ
久しぶりに上質な映画を観た。「グリーンブック」だ。
見終わった後に実話に基づいた物語であることを知り、その背景が知りたくなったので、さっそく調べてみた。
Google検索に「グリーンブック 映画」と打ち込むと、検索結果の上位に「グリーンブック (映画) - Wikipedia」が表示される。
クリックしてウィキペディアのページを開くと一行目に「『グリーンブック』(Green Book)は、2018年のアメリカ合衆国の伝記コメディ映画」と記載されている。この映画を「コメディ」と分類し、それを承認しているウィキペディアに「ちがうやろ!」と右腕水平チョップでツッコミをいれそうになる。
アカデミー作品賞を受賞したこの作品は、音楽で問題提起を目指した著名な黒人ミュージシャンのドン(雇用主)が、タリア系白人ドライバーのトニー(従業員)と共に人種差別が色濃く残る1960年代のアメリカ南部を興行するロードムービーである。行く先々の街で起こる出来事を通して、対照的な階層で生きてきた二人の心の変化が淡々と、しかし、時にはクスッと笑えるジョークも交えて描かれている。
こう書くと、アメリカ映画にありがちな「白人の救世主」が活躍する物語ように聞こえる。現に、この作品がアカデミー賞の作品賞を受賞した際にはアメリカでも批評で荒れまくったという。
なるほど。確かにテーマは「人種問題」である。けれども、この映画は「結果としての人種差別」ではなく、人種差別を生む要因に焦点を当てている。
それは、無知から来る偏見であったり、目の前に居るその人よりも優位に立とうとする欲であったり、表現を変えた劣等感であったり、慣習や同調圧力に抗う事ができない人間の脆さである。
あきれるくらい幼稚で愚かで救いがない「人種差別の方法」を示すことで、その様子を見事に描き切っている。
後半のドンとトニーの双方が感情的に心情を吐露するシーンは何とも印象的だ。
「ブロンクス生まれブロンクス育ちの俺のほうが、あんたなんかより、よっぽど黒人の世界をしってるんだよ!あんたは黒人と言ったって、お城に住んで上流階級を相手にしてるだろ!」
「上流階級の白人は自分が教養がある風に見せたくて、私の音楽を聴きに来るだけだ!音楽が無ければ、私はただのニガー(黒人に対する差別用語)だ。それを分かっていながら、ずっと堪えてきたんだ!」
いつの時代も誰もが、どこかに属しながら「モヤる」気持ちを抱えて生きている。その起源は「人種」だけにとどまるものではない。
とは言え、生まれ落ちた時に無条件に与えられる「人種」という属性を否定されるのは、自分がこの世に生を受けた事すら批判されているような感覚でもあるだろう。
かつて海外のとある国で暮らしていた頃に、なんどか髪の毛が逆立つような人種差別に出くわし、初めて「人種差別」というものを理解できた気がした。あの経験があったからこそ、今の視点に立てるのだと遺産扱いにしている。それでも、思い出せばハラワタは煮えくり返る。
多様性という言葉だけ叫んだところで変化は起こらない。結局のところ、この世界で生きる私たちの在り方でしか、世界を変えることはできないと感じている。
それにしても、ヴィゴ・モーテンセン、さすが名優。ガッツリ太って挑んだ役作りは、誰がなんと言っても「イタリア系アメリカ人」にしか見えない。
あ・・・これも人種に対する固定観念だ(笑)
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