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回想との戯れ 旅の目的地

今週の日曜日、旅に出た。
今日はそのことを書こうと思う。

和歌山を回ってぐるりとJRを一周するか、鳥羽に向かうか…考えていたのだけれど、カメラを持って、ルート変更を決めた。

最初、伊丹空港に行った。
空港というのは面白いところだ。人が持ち時間を意識しながら、各々の予定に合わせて慌ただしくその場所をできる限り楽しみ利用する。
人々の動きは直線的で、それでいて少し戸惑っている。そのような集団の、ある種統一した動きのある空間は、なんとも雑多で心地よい。建築としても見るところがあって、高さのあるエントランスと対比して、レストラン等細かな、多くの人々の使う施設は低く密集して収められている。それでもゆとりを忘れず、人が多いところには密集した施設計画を、ラウンジのような休憩スペースは広く取り、ホテルのような優雅なひと時を楽しめる雰囲気を漂わせている。密の部分と疎の部分を意識して空間がデザインされており、木の色味の「日本らしさ」を残しつつ、効率性の高い空間を作り出している。
ところで、伊丹空港は思い出の空港だ。高校入学すぐにふいにカメラをやってみたくなって、飛行機を撮りにきたことがある。お母さんと一緒に数時間、なぜ飛行機は飛ぶのか、飛行機の出発、到着航路はどうなっているのか、のんびり話しながら写真を撮っていた。
昔はどうだったのかわからないけれど柵がとても多くて、また意外と航路も少なくて、こんな小規模な空港だったのかという印象を受けた。けれど代わりに、無機質で飛行機自体の思い出が強かった空港だったけれど、多くの人がそれぞれ思い思いの時間を過ごしている、生きた空間であることを実感した。

空港を散策して、次に向かったのは舞子だ。
舞子もまた、昔悩んでいた時にふとJRでどこまでも行ってみたくなって、海に惹かれてふいに降りた思い出の場所だ。本当は電車からすぐ海が見えるのは須磨からなのだけれど、その奥の明石海峡大橋を間近で見たくて降り立ったのを覚えている。降りてみると何の変哲もない、生活感のある海辺の駅。けれど、海の向こう側、橋のかかった先の手の届くところに、大きな陸が見える。それはほとんど行ったことのない淡路島。陸と陸を、大きな吊り橋のような橋がつないでいる。大きな構造物への憧れが芽生えたのは、今思えばこの時が最初だった。舞子は今も勉強している分野の、原点のような場所だ。私はこの場所を、とてもとても大事にしてきた。
来るのは何度目かわからないのだけれど、1番最初、1人で来た時の苦く甘酸っぱい思いとともに、この場所は色々なことを思い出させてくれる。私にとって過去と現在を省みる場所だ。
舞子のよさは橋と海にとどまらない。様々な人が海をゆったりと楽しむ雰囲気がなんとも優しく、海を愛する共通認識がある感覚になるのが、なんとも心地よいのだ。人が少なく、落ち着いていて、そこには時間がどうとか仕事がとかそういうものとは無縁の、ただ海を愛する人がゆっくりと過ごしている…何かを忘れ、何かを考えたい時に、私はやっぱり、この海に戻ってきてしまう。この海の印象は、今も昔も、あまり変わっていない。よく言えば、受け入れてくれる、悪く言えば、なんとなく寂しい、そんな海だ。だから私はこの海が好きなのだ。

そんなこんなで、思い出の場所を回った。
この旅の目的は、自分が存在しているのか再確認することだったのかもしれない。過去の私と現在の私をすり合わせて、私がどこにいるのかを確認するため。


かなり疲れたのは最近運動していないからなのかな。他にも原因がありそうだけれど、まぁ。
いい休日だった。

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