飛び降り自殺未遂レポ
まえがき
抜釘手術を終えた後の外来受診、経過は良好ということで通院・治療が終了となった。私の飛び降りは世間に知れることもこの先敢えて話すこともない、取るに足らぬ事象となって消えていくのだと思う。飛び降りとそれに付随する様々な記憶を完全な過去とするその前に、自戒も込めて記録したい。なお、過去の記事や当時の日記を基盤に加筆・修正を加えたものになる。
背景
飛び降りに至るまでの日々。日中は布団から起き上がる事が出来ず、深夜に首吊りを繰り返していた。首吊りは難しくて、縄が解けたり自分で解いてしまったりするたび情けなさと絶望感で泣いていた。生活も学業もままならなくなり、大学の担当教員の勧めで精神科を受診。経緯と現状を伝えるも、卒業後の進路(就職)が決まっているという理由から「今が頑張り時」と告げられ、抗うつ薬・抗不安薬・睡眠薬の処方をもって帰宅となった。これ以上どう頑張れば良いか分からなかった。それでも夏休みの残された期間は毎日図書館に通って卒論を進めようともがいていた。しかしパソコンに向かっていても頭は回らず作業は停滞したまま時間だけが経った。後期最初のゼミを翌日に控えたその日、私はやっぱり図書館にいた。焦燥感と無力感で息が出来なくなって、もう限界だと思った。
飛び降り~ICU
2022年秋、飛び降り自殺を図った。
今考えれば大迷惑な話なのだが、私は図書館のトイレに行って、ロープで首を吊った。けれど完遂には至らなかった。それでその時、いつもなら諦めて、憂鬱な気持ちを抱きながらも帰宅するはずだった。でも出来なかった。私はどこから湧いてきたのか不思議なぐらいの確固たる意志を持って、もう今日で終わらせるんだと思った。
残っていた睡眠導入剤と抗不安薬を数粒まとめて飲んだ。効果はすぐには分からなかったけど、それをきっかけにして私は歩き出してしまった。
窓を跨ぎ、足場に立って下を覗くと、コンクリートの上を車が1台通った。人が通り過ぎて行った。巻き込みたくないなと思った。私は高い所が怖くて仕方ないのに、あの日はあまり怖いとか逃げたいとか思わなかった。人がいなくなった時、今しかないと思って飛んだ。顔は潰したくなかったし、頭を打って確実に死にたかったから、後ろ向きに身を投げた。でも、朦朧とした意識の中で、右手が物凄い力で何かを掴んでいて、これを離したら死ぬんだと思ったら、少し息が上がったように思う。でも頭がふわふわして、視界もなんだか狭くって、「このまま生きていてもどうにもならないよ」と頭の淵で私が囁いて、手を離してしまった。落下をあまり速く感じなくて、体感で5秒ぐらいはあった。そのあとゴッという鈍い音を聞いて、見事なまでに視界が真っ黒になった。真っ暗ではなくて真っ黒だった。今でも再生できるぐらい鮮明に覚えている。落ちた時に痛みを感じなかったのは救いだった。ただ、後々カルテを覗き見ると搬送時には「痛い、痛い」とひたすら繰り返していたようなので、安楽な方法では無いと思う。後遺症やその後の入院生活を思うと心底誰にも経験して欲しく無い。
病院
目が覚めたら病院のベッドの上でした…なんて嘘だと思ってたけど私は目が覚めたら病院のストレッチャーの上だった。
私の脊髄は損傷していること、手術を今から行うが今後歩ける保証はないことを、担当医が両親に説明しているのをぼんやり聞いていた。実は背中どころか腰も骨盤も踵も右手も折れていた、というのは後々知らされることになるけれど。
死ねなかった、とは思わなくて、これじゃあ友人の誕生日(その翌日だった)をお祝いできないな〜と思った。呑気に。痛み止めが効いていたのか麻痺していたのか分からないけど、痛みはなかった。
手術室へ向かうエレベーターに乗る時、「ちょっと揺れるよ、痛いけど頑張って」と言われた。私は他人事みたいに「まぁしょうがないですよね」と思ったか、呟いたかした。仕方ないと思った。自分がやったことだから。こんな沢山の人が私のために、自ら怪我した馬鹿のために治療してくれたことが申し訳なかった。なんどもすみませんと言ったつもりだったのに、声にはならなかったようで、看護師さんが困ってた。必死に耳を近づけてくれたけど伝わらなくて、「聞き取ってあげられなくてごめんね」と言われた。惨めだなぁと思った。口元にマスクが当てられた。麻酔は一瞬で効いた。
術後(ICU)
ICUには、いつ入ったかもどんな風に過ごしたかも断片的な記憶しかない。
確かなのは、ほぼ全身怪我していたから身動きひとつ取れなかったこと。特にこの時足の感覚は麻痺しており、縛り付けられていると錯覚するレベルだった。
とにかく身体が痛いし視界は狭いし動けなかった。それなのに意識は鮮明にあって、ひたすら飛び降りる瞬間や鈍い衝撃音がフラッシュバックして怖かった。気を紛らわせる方法もなければ死ぬことも眠ることも逃げることもできない。はりつけ状態で拷問を受けているようだった。生き地獄ってこれなんだなと思った。地獄の始まりに過ぎないのに。
時間の間隔も何も分からない中で、食べ物が運ばれてくる時だけ、「今は朝か昼か夜なんだな」と思った。意味不明だけど。痛みと不安の間、ようやく眠れた時に限って食事だと起こされるので、正直めちゃくちゃ恨めしかった。もうずっと眠らせて欲しかった。身体が受け付けたのはキウイひときれだけだった。
食べると次は歯磨きをする必要があった。当然自分ではできないから、歯医者で見るようなブラシと、唾を吸い取る管(?)みたいなのを使って看護師さんか歯科医かに磨いてもらった。痛みに耐えるので精一杯なのに、口を開けなければいけないのがつらかった。お願いだから眠らせてくれと思った。
ある時目が覚めたら酸素マスクが、鼻の下につけるタイプのものに変えられていた。当然鼻の穴に空気が送り込まれてくるわけだが、これがつらくてつらくて仕方なかった。喋りづらいし鼻は湿るし空気を吸えてる感じがまるでない。息苦しくて、マスクに戻して欲しいと懇願したが、「こっちの方が酸素の値良いから…ごめんね」と申し訳なさそうに断られた。ショックで気が遠くなった。こんなこと本当にあるんだなと思った。視界が白くなってどんどん落ちていくみたいだった。
鼻の管にも慣れた頃、今度は「背中の管抜くね」と突然告げられた。背中の管???麻酔無しで??管って何??怖い怖い怖い。「嫌、怖い」と訴えても意味があるはずもなく、数人がかりで横向きにされた。担当医が「ごめんね〜」「頑張れ」と声を掛けてくれた。背中から確かに何かが抜き取られる感覚があった。痛くはなかった。未だにその管が何だったのか、どう言う仕組みで抜けたのかは謎のままだ。とにかく怖くてつらくて、処置が終わった後も泣いていた。
一度目が覚めてしまうと、怖い、不安と泣いて、看護師さんを何度も呼んだ。唯一自由の効く左手で、何度も何度もナースコールに縋った。
そばにいてほしいと我儘を言った。今思えば相当迷惑な患者だったと思うけど、あの時は必死だった。看護師さんはパソコンを部屋に持ち込んで、本当にそばにいてくれた。優しすぎるなぁと思うけど、その姿を見てようやく眠れた。
「自分のせいだけど、怖いんです。飛び降りた瞬間とか、音とか、思い出すんです」と、泣きながら言ったことがある。看護師さんは、大変だったねと手を握ってくれた。今は身体を治すことだけ考えれば良いよ、と。
あの優しさがなかったら、自分のせいじゃんと一蹴されていたら。私は本気で舌噛み切ってたと思う。それくらいあのICUで受けた看護によって私は支えられた。あぁこの人たちを裏切っちゃいけない、もう二度と自殺なんかしちゃいけないなと思った。
そう思いながら、やっぱり強く死にたいと思う私がいる。自殺未遂経験者がその後完遂する割合の高さは、こういうことなのかなとぼんやり理解する。一度死へ踏み込んでしまうと簡単に戻れないし、未遂するとこんな目に遭うから今度やるなら確実にやらないとなと思う。こんなことを思う自分を好きになれない。
ICUに居たのは3日間だったと後から知ったけど、永遠にも感じるほど長く、苦しい日々だった。
それでも整形病棟に移動する時私は泣いた。
不安だった。この優しい看護師さんたちから離れるのが怖かった。それほど看護師さんに救われていた。
ちなみに移動して数日後、入院してから初めて手にしたスマホのメモ帳に、左手でどうにかこうにか私が書いた言葉は「つらい こうかい」だった。
急性期病棟(排泄問題に苦しんだ日々)
私が入院生活を送る中で、最も長く苦しんだのが排泄問題だったと思う。
飛び降りた一瞬の衝撃で、胸椎腰椎骨盤等、沢山の部位を骨折した私は、ベッド上で安静を強いられた。当然トイレにも行けない(そもそも立てない)ので、排泄もベッド上で完結させる必要があった。飛び降りる前、こんな現実があることを私は知らなかったから、書き残しておく。
尿道カテーテルの痛み
術後は骨折部位の痛みと吐き気とフラッシュバックに苦しんでいて、排泄に思考は及ばなかった。そもそも尿意というものの存在が消えていた。それもそのはず。私の尿道には管が通されていて、尿はベッド柵に取り付けられたバッグ状の袋の中へひとりでに溜まっていた。
日中、夜間、決まった時間に看護師さんがやって来て、袋に溜まった尿を回収してくれる。袋から瓶へと、尿が流れていく音は隠されもせず無遠慮に聞こえる。沈黙が苦痛で早く終われと思った。毎日繰り返されるものだから、その内何も感じなくなってしまったけれど、今思い返せばそれはそれで悲しい事だ。人間から遠ざかっていた。
そして、心理的苦痛で終わればまだマシだったのかもしれないが、抜去までほぼずっとリアルな痛みにも悩まされた。
私は寝返りひとつ打てなかったため、定期的に体位変換を行う必要があった。身体を2人がかりで横に向け、背中に枕を差し込んで貰う。ずっと仰向けでいると背中に圧がかかって不快な思いをすることになるので、とても有難いことだった。しかしある日、体勢を変えたその時、尿道周辺が尋常ではなくズキズキと痛んだ。冷や汗をかいた。何とか身を捩り、逃れようとするが、痛みは強くなる一方で涙目になった。
当時尿道カテーテルなんて言葉は知らず、なぜ痛いのか何が痛みを引き起こしているのか見当もつかなかったから、余計にパニックになった。看護師さんに助けを求めようにも何と言って良いか分からず、羞恥心と痛みの狭間で揺れたが、そんな悠長な事も言っていられなくなったため、ナースコールを押した。ほぼ限界、痛みは最高潮に達していたから、看護師さんが来るまでの時間は永久にも感じた。早く押せば良かったとものすごく後悔した。
看護師さんいわく、「管が引っ張られてるね」との事で、袋の取り付け位置を変えて貰うと嘘みたいに痛みが引いた。
少し位置が変わったり引っ張られたりしただけでとんでもない痛みを引き起こす管が四六時中入っている。その事実はその日からずっと頭にこびりついていたし、怖くて仕方なかった。私は縛り付けられているも同然だと強く思って、落ち込んだ。
ちなみにそんな管が入ったままでも足を動かすリハビリはある。動かすと当然管は引っ張られるし、ずれるから痛い。スパルタな先生だと、「痛い」と訴えても緩めてはくれない。冷や汗をかきながらも息を殺して耐えるしかなかった。もう二度とあんな思いしたくないと思う。
なお長期留置をしていると、管に汚れが目立つようになった。目視可能な大きさの、白いもやもやした何かが管へ詰まっていて、医療知識を持ち合わせない私でも放置していたら駄目だろうなと感じた。カテーテルを留置している間はあり得ないのだが、ある日朝起きると久々の尿意を覚えた。訳が分からないまま看護師さんを呼んだ。溜まった汚れで管が塞がれ、尿が流れていなかった。管を何度か揉んで、汚れを流して貰うと楽になった。「そろそろ替え時だね」「長く入れてたらこうなるんだよ」と言われた。後から自分でも調べたら、長期留置は感染症のリスクも高まると書いてあって、怯えた。
排泄管理という地獄
飛び降りる前、様々な経験談を読んで失敗した後のリスクは把握しているつもりだった(痛みや身体の麻痺など)。しかし具体的に排泄問題に直面した、あるいは介護を受けているという記事は私の知る限りなかった。鮮明でありながら介護を受けるという経験は、そうそうないのではと思うし、この現実を知って欲しいので書き記す。
私は入院前から酷い便秘症で、かと思えば酷い下痢になってしまっていた。高校時代に過敏性腸症候群と診断された。失神寸前、吐き気まで伴う腹痛でトイレに篭る事は度々あった。
体質はそう簡単には変わらないもので、入院してから3週間、私は全く便を出せなかった。お腹は膨れて山のように盛り上がっていた。それでも、血圧が低いせいで浣腸はできなかったらしい。下剤を飲んでも坐薬を入れても効き目がなく、腹痛を訴える私に取られた最終手段は摘便だった。便を人に掻き出して貰うということのつらさ。羞恥心や情けなさ。当時21歳だった私の心が折れるには十分なほどの苦痛だった。おむつに排泄すること自体も苦痛だったが、それをはるかに上回る恥辱があった。
傷の痛みが治ってきてもこうした排泄問題は残存し、それが一番堪えがたく、甚大な心理的苦痛を生じていた。後悔が消えなかった。ちなみにマグミットを処方して貰いしばらくすると便秘は改善し、現在も助けて貰っているので便秘症の人にはおすすめです。比較的刺激や身体の機能への影響も少ないらしいので。
リハビリ病院での3ヶ月
~転院
2回の手術を終え1ヶ月が経つ頃、私の下肢には運動麻痺が残ったままだった。リハビリしていれば、入院して治療を受ければ以前のように戻れると根拠もなく信じていた私は、この先数か月に渡って入院生活が続くなど想像にもしていなかった。また大学に戻って勉強するんだろうなと漠然と思っていたくらいだった。
けれどその前に生活を取り戻さなければいけなかった。お風呂も入れずトイレにも行けない、歩けない。後遺症が残る確率は99%以上だと医師から説明を受けた。担当医は優しかったので「大丈夫?」と聞いてくれて、私も大丈夫だと微笑しながら答えた。実際の所大丈夫ではなかった。家に帰っても介護が必要など耐えられなかった。一人暮らしをしてみたかった、自立したかった、けれどそれらが夢のまた夢のように感じた。
左足が重かった。骨折したのは右足だったのに、左足が何故か動かなかった。そもそも上半身が無事というか、麻痺はしていなかったのが救いだと思っていたが、苦しいに違いはなかった。いくら後悔しても元には戻らないのだ、という現実が襲いかかった。
歩く夢を見た。私は病院のベッドに眠っていて、でも部屋はなんだか明るく白い。朝が来たから起きないと、と普通にベッドから降りて。足はしっかり床についていて、少し歩いて、「なんだ、歩けるじゃん」と思って、何だかおかしくて。眠たいのでもう一度、うつぶせにベッドに倒れた。ふかふかした感触も、歩く感覚もリアルだった。目が覚めて、私は歩きたいのだと思った。けれど、また歩けるようになるのか見当もつかなかった。
それでも急性期病棟にずっとはいられず、転院調整の話が上がった。急性期病棟での生活に慣れてきた頃だったので、リハビリ病院での生活はどんなに大変だろうかと思うと気が滅入ってしまった。
転院後リハビリ~座位
転院直前に左足の指が動くようになり、膝立てまで出来るようになった。幸運としか言いようがない回復だったようで、皆に驚かれた。では歩けるかと言うとそうではなく、骨折部位の治療の関係でベッド上安静が求められた。転院時もストレッチャーで介護タクシーに乗車し移動した。駐車場を通る時に家族が愛犬を連れてきてくれて、一瞬会えた。外の空気を吸ったのも久々だった。またしばらく塀の中、と思うとつらかった。天井を眺める時間が異様に長かった。
リハビリの内容は当初、足や腕を曲げ伸ばしするという簡単なものだった。それが直接歩行に結びつくとは思えなくて、リハビリの進捗を考えると鬱々とした気持ちになった。しかし膝立てや足を持ち上げることが出来れば歩けるようになった前例もある、と励まして貰って、少し希望が持てた。
座位を保つ練習も始まった。ベッド上で、テーブルに手をついてだが何とか座れた。初回は足にぶわっと血が回って、強く押されるような痛みがあったが、2・3回目になると慣れて、支えて貰えば普通に座れるようになった。低血圧のせいか座り続けていると若干頭がぼうっとして、ふらふらしたが、それもしばらくすると緩和した。
車椅子移乗/トイレ移乗
12月になると車椅子移乗の練習が始まった。ベッドから車椅子にサーフボードのような板を渡して、その上を座位で移動していくような形だった。長期間寝たきりだっため筋肉は衰えて、身体を動かすのは容易ではなかったが、一刻も早く排泄管理から脱却したかった私は必死でリハビリに励んだ。
車椅子移乗の練習を始めて2日目、ポータブルトイレが運ばれてきた。朝からトイレ移乗とズボンを下ろす動作のリハビリをすることになったが、これがまた恥辱だった。部屋に存在感を放つポータブルトイレの、そのフォルムと大きさ。排泄するための物が運ばれてきたときの衝撃。嫌でも自分がそういう状態にあると、つまりは部屋でなければ排泄も出来ない状態であると痛感させられるような心地だった。きれいだから大丈夫と言われても、こびりついた色や、蓋から、プラスチックの排泄容器であるという印象が拭えなくてつらかった。ここで排泄をすることになったら私はどうなるのだろうと思った。人が入ってきたらどうしたら良いのか、忙しそうな看護師さんを毎回呼ぶのか。様々なことが頭をよぎっては落ち込んだ。
筋肉が落ちているせいで接地面が硬くて痛かった。死ぬために飛んだのになんでトイレを人に手伝って貰って、ズボンを下ろすのに四苦八苦しているのだろうと思うと、本当に消えたいと思った。こんなことならもう死にたい、飛び降りようと思った。窓は広かった。〇階ぐらいではどうせ死ねないことも分かっていた。こんな痛い思いやつらい日々を2度と繰り返したくないことも。つらくてつらくて、涙をこぼさないよう必死だった。
もう限界で、耐え切れなくて、リハビリの先生に「凄く疲れました」と言った。リハビリを拒否したくなったのは初めてのことだった。先生は「焦らなくていいよ」「急がなくても良いよ」と優しく声を掛けてくれて、その日車椅子で外に連れ出してくれた。外の空気は新鮮で、胸いっぱいに呼吸した。青空が綺麗で、川の水面はきらきら光っていた。砂利道は振動して少し痛かったけれど、苦にならなかった。明日どんなリハビリをするのか私がどんな風になるのか本当に予測できなかったけれど、とにかくその日は救われたような気持ちになった。
~歩行(退院)
足の荷重制限が徐々に無くなって介助があれば普通のトイレに行けるようになった。それでも介助を受けると言うことに強い苦痛を感じていた私は、尿道カテーテルを留置したまま年末を迎えた。家族は車椅子に乗れたことを報告すると良かったね、と言ったが正直何が?と思ってしまった。リハビリ室で高齢の方々の横に並んで、彼らよりも段階の低い動きをするときの気持ちは?もしくは彼らと同じ運動をしなければいけなかったことは?知らないでしょう、と思って悔しかった。
トイレも食事も、人に頼ることが嫌だった。頼むくらいならこのまま(カテーテル留置、ベッド上食事)のままが良い、と思った。ナースコールを押すのも人に手伝って貰うのも不安だった。常に忙しそうなスタッフの方々、歯ブラシを床に落としても洗ってもくれない人、色んな人が居て、しかしその対応を甘んじて受け入れなければいけないことがものすごくつらかった。涙ながらに訴えると、ポータブルトイレは選択肢から消してくれたし、私がひとりでトイレに行けるまで待ってくれることになった。
動作に慣れてきたその日、私は2ヶ月間留置していた尿道カテーテルを抜去し、自立へと大きな一歩を踏み出した。それからはリハビリも私の身体能力の回復もスピード感を持って進み、1月を待たずして歩行器を使っての歩行の練習も始まった。お風呂も自分で入れるようになった。着替え・入浴・片づけをこなすのは最初は難しかったし、自立許可が出るまではリハビリの先生に裸を晒しもしたけれど、それでも自分で出来るということの喜びは桁違いだった。
腹部は長期間寝たきりだったために膨張して、それは脊損あるあるだそうなのだが、それには少しショックを受けた。痩身であることを少しアイデンティティのように思っていたところがあったので、今も少し悲しい。
荷重制限がなくなった1月、杖での歩行練習が始まった。コルセットも外れ、私は日常生活へと近づいて行った。杖なしの歩行、階段の昇降、床からの立ち上がりの練習や床に落ちた物を拾うなど、生活に必要な動作が完璧になった頃、私は大きな後遺症もなく退院することができた。
抜釘手術
退院して1年、受傷時に身体に埋め込んだボルトやプレートを抜去する手術を行うことになった。怖かった。麻酔の効く感覚、暗闇と一瞬の空白は、飛び降りたあの瞬間に相似しているからだ。
部分麻酔で抜釘手術を行った知人は叫ぶほどの痛みに耐えなければいけなかったらしい。それを聞くと全身麻酔で意識の無い間にすべてを終えて貰える私は恵まれているのだろう。しかし目覚めて世界が一変していたらどうしようとか、大切な人に何かあったらとか、そういう事を本気で考えてしまっていた。最近は希死念慮が落ち着いた代わりに、死や痛みといったものが恐ろしくなった。災害や事故、事件、病気などに大切な人が巻き込まれたらどうしよう、自分もそういう立場に置かれたらと、四六時中考えてしまう。死が怖いという感覚を抱くのは生き物として当然の事かもしれないが、毎日こうだと疲弊してしまう。
手術後の生活を考えると、どうしても下肢運動麻痺のあった日々を思い出してうんざりしていた。全身を拘束されたかのような不自由さと閉塞感、手に握らせて貰ったナースコールが命綱だった。水分補給も食事も自力ではできず、物ひとつ自由に取れない。看護師さんに全て任せることの申し訳なさや機嫌を損ねて何もして貰えなくなったらという警戒心から、依頼する言葉、態度のひとつひとつに気を張り詰めていた。涙で滲んだ視界、日付も時間も曖昧な薄暗い部屋。その最中にいると取り乱しはしなかったけれど、振り返ると恐ろしい。
実際に抜釘手術を受けた当時の心境は以下の記事にまとめてあるのでもしよかったら読んで欲しいと思う。
(ちなみにトップの画像は実際体内に入っていたボルトやプレート。工具みたいに見える…)
あとがき
飛び降りた当時から今に至るまで、一貫して抱いている気持ちがある。それは「誰にもこんな思いをして欲しくない」ということだ。自殺を止めようとか誰かを救おうとかそんな傲慢な気持ちも力もないけれど、それでもこんな苦痛を味わってほしくないということだけは本気で言える。私自身未だに死にたいと思う事も多々あるし、行動しそうになったりもするけれど、もう十分苦しんだのだから、これ以上苦しい思いをする必要はないと思う。そんな怖い思いはしなくて良いんだ、というのは大切な人から言って貰ったことの受け売りだけれど、本当にそう思います。
読んでいただいてありがとうございました。みんなが穏やかにいきられますように。
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