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ピカピカの革靴

「若いって良いね。上がるだけだから。私は下がるだけだよ。」


忘れもしない。入社1日目のこと。
「上司が出勤したら席を立つ必要性」を懇切丁寧に教えてくれた上司の口頭一句だった。

抱いた印象は最悪だった。



入社して数日で、最初に抱いた違和感は確信に変わった。

感情の起伏、電話の数、責任放棄、過去の栄光、笑わない瞳

この人、仕事、楽しくないんだろうなあ。純粋にそう思った。


ただ、部下育成は楽しいらしかった。


実際、疑問には丁寧に答えてくれた。
私は教えてもらった分だけ仕組みを覚えていった。


気性が荒い分、分かりやすく、上手くかわして出来るだけ関わらないようにした。


ただ、自分にとって苦しいことが2つあった。

1つ、行動を加点方式で評価されたこと。
2つ、職場の鬱憤を会うたびに聞かされたこと。

新卒は減点方式だと0になってしまうから加点らしい。
売上につながる行動をしたときに「いいね!1点!」と言われた時、この人とは分かり合えないと思った。

口を開ければ毒を吐いていた。口のまわることまわること。その分手を動かしてくれよ。

ピカピカの革靴。何度踏んづけようと迷ったか。

嫌いではなかった。
でも、心が壊れるのは簡単だったように思う。


ある時、家に帰って親に「おかえり、どうだった?」と言われた時。

何かがほどけて「無理!」とわんわん泣いた。



それからのことはあまり覚えてない。

最終日、「せっかくここまで育てたのに。まあ君は上手くやれると思うよ。」とお言葉をいただいた。

異様に背中が寂しい人だった。曰く、上がるだけらしい私の知ったことではないけど。



異動後、さあ切り替えられるかと言えば上手くはいかなかった。

その年の末まで、気分は上がらなくて。

「上手くやろう」が出来なくなり、ただの沈殿物と化した。

上昇志向の新しい上司とは反りが合わず、はちゃめちゃに衝突した。


どんどん頭は回らなくなり、休みたかったタイミングで「休みたい」が出なくなった。

一瞬、「いらっしゃいませ」が思い浮かばなくなり、頭の端でここまでかと笑ってしまった。


そうしてしばらく、異動元の管轄内が人手不足となり、異動先にも応援要請がかかった。

反りが合わない上司曰く、私たちを戻したいらしかった。

喚いてる姿が想像できて、物理的な距離にただほっとした。



それから、年が明け、沈殿と浮上を繰り返した。

ふと、掃除中、入社ほやほやの時のメモを見つけて開いた。

大したことは書いていない。
ページを進めていくと自分の字がどんどんミミズみたいに縮れていってびっくりした。気づかなかった。踏ん張ってたんやなあ私。

ミミズ字に悲しくなり、数枚千切って捨てた。

それから更に年が明けた。
今は何も思わない。

ただ、苦しかった時、会ってくれる人たちが眉毛をへの字にして話を聞いてくれていたこと。

今の元気な話をうきうきで伝えた時、ほっとした顔をしていたこと。

「あなたが幸せならそれが良いよ」って心配してくれた人たちに申し訳なくて

きっと「無理!」って喚いた日や、声が出なくなった日に、辞めとけば良かった。

辞めとけば、通勤電車で泣く日々はなかったし、そんな状況が嫌になることもなかった。

結局、このまま何も成さないで諦めるのが悔しくて、続けてしまった。

誰かに選択肢を潰されるのが嫌でたまらなかった。

結局続けてしまった。

去年の晩夏、久しぶりにその顔を見つけて挨拶に行き、

「元気そうだね」と言われたので「おかげさまで」と返した。