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熱病日記


主にTwitterでお世話になった皆様へ:この文書は、復職後に、闘病中の記録を参照しながら少しずつ書いた体験記です。当初は書籍化を意識していましたが、長い間交流してくださった皆様への、私からの些細な恩返しになることを願い、この形で公開することにしました。

文字数は33,000字程度で、短めの小説に相当するボリュームです。個人的な体験に過ぎないとは思いますが、誰かにとっての何らかの価値を生むと良いです。季節は春に移り変わっています。春の訪れが皆様に良い風を運び、良い変化を起こすことを願っています。これまで交流していただき、ありがとうございました。



【序文】

 新型コロナウイルスによって、命を落とした全ての死者に哀悼の意を表する。

【はじめに:この文書の目的】

 私が新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に感染し、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を発症したのは、2022年7月末のことである。

 数日前に会った人物がPCRテストで陽性となり、私は濃厚接触者となった。連絡を受けた翌日に37.6℃の発熱があり、その翌日には、さらに39.8℃まで体温が上がったことで、自らの感染を悟ることとなった。

 急性期の症状は、始めの数日の内、高熱、咽頭痛、頭痛、関節痛など、一般的な感冒でも見られるものだった。ところが数日後から、味覚障害、嗅覚障害、頭がぼんやりとしてうまく思考できないような感覚、体を起こせないほどの強烈な倦怠感など、独特の異様な症状が押し寄せるようにして現れた。このときは、長い期間Long COVID(新型コロナウイルス感染症の罹患後症状/コロナ後遺症。本書ではLong COVIDと記載する)に苦しむことになるとは、まったく思っていなかった。

 はじめに言及しておこう。筆者は約1年7ヶ月の療養生活を経て、現在、Long COVIDから回復し、罹患する前と同一の日常生活、また職務に復帰している。

 新型コロナウイルス感染症と、その罹患後症状において、私がどのような体験をしたのか、また、体調を戻した際に心がけていたことを、自らの予備知識を交えつつ、体験記の形式でまとめたい。

 目的は、Long COVIDの過酷さを、記憶が新しい内にまとまった記録として残しておきたいと考えたこと、また、私が療養中に留意していたことが現在もLong COVIDに苦しむ人々にとって、(ごくわずかであっても)一助になることを期待するものである。

 断りとして、私は、特定の治療法や、薬剤、栄養素、医院を推奨したり提案する意図を持っていない。また、体験記の中で治療法、薬剤、栄養素、医院を紹介することもしない。試したことの全てを記載する手引書様の形式も取らない。またこの文章はLong COVIDに関する専門的な解説書でもない。

 あくまでも個人的な体験記であり、重度のLong COVIDから回復した者の、主観的な感想を多分に含んでいることに留意されたい。

【発症の経緯:恐ろしい症状】

 まずは、Long COVIDの発症の経緯と、経験した症状について、簡潔にまとめたい。

 前述した通り、私が新型コロナウイルスに感染したのは2022年の7月末である。感染のタイミングから考えると潜伏期間は約4〜5日程度。はじめは、39.8℃の高熱、咽頭痛、頭痛、関節痛などが現れ、インフルエンザなどウイルス性の感冒様症状に似た体感を覚えた。

 既存の感染症との大きな違いを初めて感じたのは、発症から数日経過後に現れた症状たちである。まず、嗅覚と味覚が失われた。それに気付いたのは、鮭の切り身を調理し、パンと合わせて食べようと試みた際である。急性期の感冒様症状も非常に強いものではあり、数日はまともな食事を摂ることができなかったが、高熱や咽頭痛は落ち着きつつあったし、強力だった倦怠感も薄れ、身体も起こせるようになっていたので、不足している栄養を摂取しようとしたのである。

 ところが、味も匂いもしない。正確に言えばわずかな塩気だけは感じる。しかし、それ以外の全ての風味や味が失われている。「これが噂に聞いた嗅覚味覚障害か……」と考え、備蓄してあった食材を手当たり次第に色々食べてみたが、どれも味と香りがしない。この時の感覚は、口に入れたものの食感だけを残して、そこに存在しているべき味と匂いがどこかに消えてしまったようであった。

 「まだ治り切っていないのか」と思った。思えば、体もまだまだ重だるい。呼吸もしにくく、胸が締め付けられるような感覚も続いている。頭も、なんとなくぼんやりとしている。動悸が起きることもある。もうしばし静養が必要だと思えたので、療養期間を超えて、職務を停止したい旨を職場に申し出た。

 ところが、休んでも休んでも回復する様子がない。特別悪くなっている感じもしないが、回復している感じもない。発症からひと月ほどが経過しても、元の体調に戻っていく感覚がない。厄介な後遺症を疑い始めたのも、この頃だったように記憶している。

 何か、異常なことが体内で起きている感じがする。

 そう考えた私は、病院巡りをすることになる。内科で詳細な血液検査。呼吸器内科で胸部X線検査や、心電図検査。脳神経外科で脳MRIと、脳内血管の造影検査。このような体感がずっと続くのはおかしい。どこかに異常があるに違いない。私はそう考えていた。

 ところが予想に反して、いずれの検査でも全く異常が見られなかった。血液検査の数値はむしろ優良。遺伝的に、元々LDLコレステロール値がやや高くなりやすい傾向はあるが、それも正常の範囲内。不調に関連している可能性がありそうだと思った、副腎皮質ホルモン(コルチゾール)や、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の値も正常。甲状腺ホルモン(FT3/FT4)も正常。甲状腺刺激ホルモン(TSH)も正常。

 胸部X線でも、心臓、肺ともに異常所見が見られない。心電図にも異常な波形が見られない。「じゃあ、脳に違いない!」と思ったが、MRIにも一切異常がない。脳血管の造影検査でも異常がない。

 なら、この継続する不調の原因はどこにあるのか? どこに行けば原因を特定してもらえるのか? 続く不調に不安を覚え、悩みながら、時間がどんどん経過していくことに恐怖を覚えた。

 そのような日々を過ごしている内、続く不調を決定的なものにする出来事が起きた。後に、Long COVIDにおける「クラッシュ」と呼ばれる現象だと知ることになる、体調の急変である。内科に検査結果を受け取りに行き、自ら運転している最中に、突然、脳内の奥の方から圧迫感を伴って何かが放出され、呼吸がしにくくなり、目の前がぼんやりと霞むような体感が起きた。

 自宅に到着して車から降りると、体が思うように動かない。通常の歩調で歩こうとすると強い息苦しさが現れ、また脚そのものも思う様に動かず、前に進めないのだ。しかし、駐車場でうずくまっているわけにもいかない。よろめきながら、なんとか自宅まで戻った。玄関で靴を脱ごうとしている時である、急激に全身の力が抜け、その場に立っていることができなくなった。

 這うようにして自室へ向かい、ベッドに横たわる。頭の中で何かが膨らんで、頭蓋骨の内圧を高めているような気がする。不快な体感を生む物質が、身体中を駆け巡っているような、あるいは毒物を摂取してしまったかのような、異常な体感がある。息がうまくできない。心拍数が急激に上昇したり下がったりする。自分の体に何が起きているのか考えようとすると、頭に強烈な不快感が現れ、考えることもできない。助けを呼ぼうとスマートフォンを見ると、画面の明かりが突き刺さってくるように感じて苦しい。身体を起こそうとしても力が入らない。

 この時から2ヶ月間、ありとあらゆる症状が激しく現れ、同時に顎を閉じておくこともできないほどの脱力感に襲われる。俗に「寝た切り」と呼ばれる、自力で身体を起こせず、食事や入浴にも事欠くような状態が続くことになる。

 2ヶ月の間、どのように過ごしていたのか? 本物の生き地獄だった。身体を起こすことができないから、ずっと寝ているしかない。普通、体調を崩しても、ずっと寝ていれば体が休まって次第に復調を見せるはずだが、それもない。どれだけ休んでも、激しい倦怠感が常時続いていて、その強度は「存在していることが辛い」と思うほど。腕を持ち上げる体力もなく、カトラリーが使えないから、食事は備蓄してあるゼリー飲料になんとか手を伸ばし、すすって、生命維持に必要なエネルギーだけを摂取している状態。何回かに一回は、タンパク質や脂質が不足すると思って、牛乳を飲む。

 思考ができないから会話ができない。会話をしようとして、言いたいことを頭の中で考えようとすると、脳が締め付けられて強い悪心が起こる。呼吸もおぼつかないから、発声に十分な空気の量が吸い込めない。だから話せないし、無理やり話そうとしても、最低限の意思表示ができるかどうかという状態。

 話せないなら文字で情報伝達をすればどうか? と考えてスマートフォンを手にしても、画面の光が異様に眩しく感じて強いストレスを感じる。数秒は見ることができるが、長い時間直視することはできない。だから使い物にならない。室内のエアコンや換気扇の音も異常にうるさく感じるから、遮音性の高い耳栓を常に着用して、なるべく無音に近い状態で過ごすしかない。

 身体を起こそうとすれば、心拍数が急上昇してすぐに苦しくなり、直ちに倒れ込まずにはいられない。頭が働かず、文字が読めない。文字を見ても、ただの図形の羅列に感じられてしまい、その文字が意味する概念/意味と頭の中で結びついてくれない。

 あまりにも辛いから、せめて眠りたいと思っても、症状が激しく襲ってきてうまく入眠ができない。ようやく意識を失うように入眠しても、脳内が煮えるような不快感や、異常な心拍数の変動、呼吸ができない息苦しさですぐに目が覚めてしまう。眠ることすらできない。

 ひと言で言えば何もできない。Long COVIDは、私の活動の全てを強力な力で妨害する、恐ろしい悪魔か怪物かのような存在に思えた。ここまでに記載した状態は、2ヶ月間、ずっと変わらない強度で継続した。以下には、私が体験した症状を思いつく限りで羅列する。

・身体を起こせないほどの強い倦怠感
・僅かな活動の後に、倦怠感を含めた症状が急激に増悪するPEMと呼ばれる症状
・ブレインフォグと呼ばれる認知機能の異常
・失語症のような、言葉を思い浮かべることができない症状
・現実感を喪失し、自己の意識と外界の境が曖昧になるような症状
・胸が詰まったようになり、うまく息が入ってこないような息苦しさ
・入眠困難と、30分や1時間に一度の中途覚醒
・ランダムに現れる激しい動悸
・立ちあがろうとすると、急激に心拍数が上昇する起立性の頻脈
・消化器の不快感と、消化不良時のような下痢症状
・味覚障害(薄い塩気のみを感じる)
・嗅覚障害(アンモニア臭のみを感じる)
・突然、発作的な不安感に襲われて、感情のコントロールができなくなる
・グラグラとする、強いめまい
・頭痛
・脳が直接締め付けられているような圧迫感
・四肢の強い脱力感と、体幹部の脱力感
・耳鳴り(キーンという高音、ピーという電子音、シャーという水が流れるような音)
・音が、歪んで聞こえる様な聴覚の異常
・夜盲症(暗い場所で、ものを見ることができない)
・関節の痛み
・筋肉の不快なこわばり感
・筋肉痛
・脱毛
・口内の強い乾き
・眼球の乾き
・眼圧が高まって鈍く痛む
・皮膚から水分や油分が抜けたように、極端に乾燥する
・皮膚の新陳代謝がうまくいかず、局所的に剥がれ落ちる
・皮膚に赤い斑点が現れる
etc...

 ここに書ききれない細かな症状を上げようとすればまだまだ思いつくが、「自分がいかに辛い身体の症状に苦しめられたのか」という生々しい話はこれくらいにしておこう。数々の症状によって身体を起こせないほどの重症だったということが分かってもらえれば、この節の役割は十分である。

【情報収集:回復の希望はあるのか?】

 身体的な苦痛のひどさは前の節に記した通りだが、それにともなって深い精神的な苦痛も味わうこととなった。

 私が体験した状態は、一般的に想定される感染症後の経過とは様子が全く異なっていたし、認知機能の異常などは、神経系への深いダメージを想像させた。感染から合計で3ヶ月近くの時間が経過しても回復する様子がなかったから、この段階での私の解釈は「感染症によって、主に神経系に治癒することのない重大な後遺症が残った」というものだった。つまり「この先の人生は、この状態で生きていかなければならない」と考えたということである。

 その状況で未来の生活に希望を見出すことは難しかった。難しくて当然であると思う。発症の前日まで、懸命に仕事をしていた。趣味も楽しんでいた。毎日人に会い、毎日、満足感を持って生活していた。生きていることを、喜んでいたと思う。それが突然、身体を起こせない状態になり、食事どころか、睡眠や呼吸という、生命維持の根幹を成す活動すら、満足にできない状態になったのだから。

 想像したことのある、あらゆる絶望を上回る絶望感だった。「自分には何もすることができない」という気持ちは、人の心を深く落ち込ませるものだ。私は、本当に何もすることができなかった。次第にその感情は「自分は存在しているべきではないのかもしれない」という考えにも発展した。想像し得た絶望を超えていく絶望。苦痛を感じない時間が全くないという苦痛。もしもRPGなら、攻撃手段が失われ、回復をする方法も絶たれ、進むことも戻ることもできない状態。迷わずリセットして、セーブ地点に戻りたい。しかし、現実の世界にはゲームオーバーもリセットもない。

 このときに私がしていたのは、これまでの楽しかった思い出を反芻し、思考の中で少しでも気分を良くさせようとする試みである。子供の頃、学生の頃、働き始めてから。楽しかった思い出たちを思い出して、その中にいるような気分を味わうという行為。しかしそれをすると、現在の自分には、それらの全てができないということが余計に強く意識させられ、ますます辛くなった。

 ところが、感染から3ヶ月が経過したあたりから、体感にわずかな変化が訪れたように思えた。

 苦痛は変わらずにずっと続いているし、治癒や回復と言うには遥かに及ばないのだが、症状の強度が、ごくわずかにではあるものの弱まったような感触があったのだ。背中にクッションを挟んでもたれる姿勢をとれば、少しだけ身体を起こすことができるようになった。入眠の困難感は続いていても、短時間に何度も繰り返し中途覚醒している状態から、短時間だけまともな睡眠をとった感覚が訪れたりもした。

 それにともなって、スマートフォンも短時間ならば使えるようになった(短時間というのは、10分や15分くらいなら、調べ物をしても症状が増悪しないという状態であって、自由にいつでも使えるというわけではない)。

 肉体の変化と認知機能の変化が連動していたことから推測するに、この頃、脳は"全体的に"機能を障害され、また"全体的に"緩やかな回復を始めていたものと思われる。特定の分野に不可逆的なダメージを負っていたのであれば、このように、「脳にまつわる全体的な問題の程度が、同時進行で緩やかに回復する」という現象が起きることは考えにくい。おそらく、脳は破壊されているというよりも、うまく動けなくなっているのではないか? そうぼんやりと思った。

 私はGoogleで国内外のLong COVIDに関する知識を集め始め、次第に自分の身に起きていることを理解しはじめた。同時に、Twitter(現X)やRedditといったSNSにアカウントを開設し、自分と同じようにしてLong COVIDに苦しむ人が、国内外を問わず、大量に溢れていることを知った。

 これを読んだ方が、Long COVID、俗にコロナ後遺症と呼ばれる病に興味を持ったなら、Twitter(現X)を用いて「コロナ後遺症」と検索してみてほしい。アカウント数の多さに驚くはずだし、当事者たちの発信している内容から、Long COVIDが生活を破壊し、人生の計画を大きく狂わせる恐ろしい病であることも伝わってくると思う。

 さて、少しだけ頭が働くようになって情報収集を始めることができるようになった私が、Long COVIDに関する情報としてはじめに調べたのは、どの様な病気なのか? という点である。その際のメモを引用し、以下に紹介してみる。

・咽頭組織や、重症度が高かったとしても呼吸器の炎症にとどまるケースが多い従来の感冒とは異なる。
・したがって、体のどの場所にどのような感染の仕方をするのか、また、どの様な不調が現れるのかは、患者によって異なる。
・感染時の状態を反映したLong COVIDについても、同じ様に、どの様な症状が、どの様な現れ方をするのかには大きな個人差がある。
・治療法や療法は確立されているとは言えず、確実に効果を示すと言えるような方法は、現時点ではない。
・症状を抑える対症療法については、有効とされているものも大量にあって、実際、効果を体感している患者も多い。
・短期間で回復するケースもあれば、長期にわたってなかなか回復が進まないケースもある。
・「ウイルス感染後疲労症候群」や「慢性疲労症候群/筋痛性能脊髄炎(ME/CFS)」と呼ばれてきた疾患と症状が酷似しているケースも多く、実際に、これらの疾患名で診断を受けている患者も多数存在する。
・ME/CFS様の病態を持つLong COVIDと従来型のME/CFSについては、同一視する意見もあるが、別のメカニズムが非常に似た病態を生んでいるとする意見もあり、2023年時点では断言することは難しい。

 このほか、ウイルスの特性としては「ACE2受容体を用いて細胞内に侵入でき、ACE2が発現する全身のありとあらゆる組織に感染し得る」とか「感染の急性期を過ぎても、排除され切らずに体内に残存することがある」「毛細血管の血管内皮細胞に、ウイルスの表面に持つスパイクタンパク質を巻き込んだ、異様な血栓が形成されることがある」などが挙げられる。

 信憑性が高いと思われる説はさまざまあって、ここに列挙したのは、医療機関のケースレポートなどによって、一定程度の信憑性の裏付けが取れていると考えられる説の一部である。現在もなお、新たな真実が明らかになっている最中で、いわばSARS-CoV-2、COVID-19、Long COVIDのいずれもが、研究途上の段階である。

 いずれにせよここに列挙した説は、医学的側面から治療方法の可能性を見出そうとして挙げているわけではなく、あくまでも「筆者が、信憑性が高いと考えて、意識していたメカニズムやウイルスの特性」であることを改めて明記しておきたい。また、私が体験したのは、Long COVIDやコロナ後遺症と呼ばれる罹患後症状の中でもおそらくスタンダードに近い、強烈な倦怠感や認知機能の異常をメインに持つタイプのものだったが、他にも様々な病態があって、症状の出方にはかなりの個人差があることも記しておきたい。

 それはそうとして、患者の視点から見て最も重要なポイントは、メカニズムがどうということよりも「回復できるのか、それとも恒久的に異常が残ってしまうのか?」という点だと思う。

 その点に関する情報を探してみると、無闇に希望的観測を持てないとも思った。年単位で症状が継続するケースも非常に多いようなのだ。ではどうするのか。そのまま運命を受け入れて、動かなくなった身体と働かなくなった頭で生きていくか? まずは抗うべきであろうと考えた。調べれば調べるほどに、いくらでも出てくる絶望的な情報。それを受け入れるのか、それとも回復を信じて歩いてみるのか。まずは2択問題だ。

 私は「Long COVIDから回復した人物」の体験談を積極的に読み始めることにした。これは、主に米国の掲示板サイト「Reddit」で探した。思いの外、大量に記事がヒットする。私は1件1件を読み込んで、回復者たちが何を語っているのか、彼らの語ることに共通項はあるのか、効果的であると多くの者が語る“何か”はあるのか、また、回復というのは、どのような状態を指すのか……等々を読み取ろうとした。

 100件程度の体験談を読んで、私が、回復者に“共通していると思えた”法則は以下の通りだ。

・現在の体力に比して、大きな負担になることをすると、状態が大きく後退する。
・しかし、症状の増悪を起こさずに出来る範囲のことは、しようと試みる姿勢を持っている。
・サプリメント、食事療法、投薬など、誰もが何らかの治療を試しているが、効果の有無は千差万別であるし、かえって悪化させるパターンもある。
・症状は、治まったり、ぶり返したりを繰り返しながら、最後に消えていくという傾向を語る人が多い。
・2ヶ月や3ヶ月程度の短期〜中期で改善する例は多いとは言えない。回復者の多くは、年単位の時間をかけて回復している。
・重度(私が体験したような、ベッドから身体を起こせず、思考が出来ないといった状態)から、完全に回復している人も、そこそこの頻度で見つかる。

 大量の論文を読んでいるときは、回復がいかに難しいのかを思い知らされる心持ちだったが、Redditの投稿を読んでいるときは、回復が不可能ではないと、過去の回復者から励まされているように感じた。

 明らかにされている(仮説として相当程度信頼できそうである)研究と回復者の体験談を改めて総括してみると、どうやら次のような言い方ができそうだった。

 Long COVIDには確実に効果を示す治療法が現時点(調べたのは2022年時点)ではない。また「誰もが確実に、順調に回復していく」と断言できる甘さもない。わかっていることもあるが、わかっていないことも多い。

 しかし、重度の状態から、時間をかけて回復している者が世界中にいることは、事実である。それは信じて良さそうに思えた。

【肉体の回復:灯りのない洞窟】

 回復者たちの語る内容は確かに合っているようだった。常時感じている倦怠感に抗って、無理に体を動かしたり頭を使うようなことをすると、体調が急激に、あるいは数時間、十数時間の経過を見た後に悪化する傾向にある。かといって、漫然と寝ているだけでも体調の変化が一向に訪れない(ように思えた)。倦怠感が薄れるように感じることがあっても、その状態は必ずしも継続するわけではなく、また次の日には元通りに戻ってしまったりする。そうかと思えば、改善の状態を数日に渡って維持することもある。それぞれの因果は判然としない。症状の強弱の変動は(特に悪化については)行動の結果として起きているように感じられることが多かったが、脈絡を無視して突然調子が悪くなったり、突然良くなったりするように感じられることもある。

 これまで、普通感冒(いわゆるかぜ)の罹患時やインフルエンザウイルスに感染した際の経験を遡って考えてみると、急性期はしっかり休んで栄養や水分摂取に気を配り、回復が見られたら徐々に元通りの生活強度に戻ることで、自然と、しかも完全に、治っていた。Long COVIDにはこうした常識が一切通用しなかった。まず第一に、眠ろうとしても眠れず、眠れないから疲れがいつまでも取れず、疲れがいつまでも取れないから、ずっと感染中のような満身創痍の状態が継続して、まともに動けない。動いてみれば悪化、動かなければ状況は変わらない(ように思える)。

 こんなシーンを想像してみてほしい。どちらが入口で、どちらが出口なのかが全然わからず、どう進むべきかわからない洞窟の中に1人でいる。灯りもない。落とし穴があるかもしれないし、障害物があるかもしれない。道は枝分かれしていて、どれかは出口につながっているかもしれないが、つながっていないかもしれない。どれかは行き止まりになっているかもしれない。動くことが危険だから助けを待ちたい。しかし、外と通信をとる手段は何もない。

 私の置かれた状況を心象風景にするなら、こんな場所だった。

 絶望的である。しかし、ひとまずは絶望的であるということがわかっているだけでも、いいとしよう。そう思った。状況の困難さに気がつけたのだから、次はどこから手をつけるべきかを考えればいいのだ。体感できる症状をよく観察してみれば、ノーマルな強度の生活を遂行する際の障壁となる問題は、大きく分けて4つあるように思えた。

1.身動きが取れないほどの倦怠感
2.満足に眠れない不眠症状
3.起立や姿勢の変更で心拍数が急激に上がり、息苦しさや悪心に襲われる症状
4.まともに思考ができない脳機能障害

 動けず、眠れず、心臓の動きがおかしく、満足に考えることができないということだ。どこから手をつけるべきなのか。誰も答えは知らないだろうが、私は直感的に「動けないという状態をまずは解消するべきではないか?」と思った。長期的に動いていない状態が長く続き、仮に廃用症候群を併発すれば、回復への道のりが複雑になる可能性があると考えたのだ。

 廃用症候群とは、長期的な安静状態を維持することで身体機能が著しく低下することを意味する。この時点で既に罹患から3ヶ月程度が経過していて、症状そのものの強度とは別に、長期的に安静にしていることによる身体機能の衰えも感じていた。恒温動物の肉体は、生活の強度や習慣に応じて組織を作り替える性質を持っている。例えばそれは、毎日激しい訓練に臨んでいるアスリートの肉体を見ればよくわかる。競技にもよるが、彼らの体脂肪率は平均よりもずっと低く、その代わりに筋肉量が多い。激しい動きを積み重ねた結果、筋繊維は断裂と構築を繰り返して太くなり続け、脂肪は、細胞に取り込まれるよりも先に代謝され続けてきたことを意味する。

 このときの私の状態は廃用症候群と呼ぶには及ばないが、目視で痩せ衰えていることが確認でき、強力な症状を抜きにしても、二次的な体力の低下を実感できる程度に体力が落ちていた。だから、まずは「動けない」を解消しようと考えた。しかしこの時の私は、動けないどころか立てなかった。正確に表現するなら立ち続けることができなかった。瞬間的に立ち上がることはできるが、数秒もすればすぐに心拍数が急上昇し、悪心と息苦しさが生まれて倒れ込んでしまう。立っていられる最長の時間は、無理をしても2分か3分といったところ。それ以上経っていると、しばらくは身動きが取れないほど疲弊した状態になる。

 なんとも不思議なものである。罹患する前の日まで、毎日長時間座り、立ち、歩き回って暮らしていたのに、数分立つことすらできなくなるなんて。新型コロナウイルスは、私の肉体をどれほど壊したのか? このときの私は、元通りの体調に戻って、元通りの日常生活が送れるようになるなどとは、全く考えることができなかった。どちらかというと「室内での生活くらいは問題なく送れるようになりたい」といった姿勢が近かったと思う。

 症状は著しく、ここまでに書いたような有様だったから、食事を摂るとか排泄をする、入浴をするといった日常生活における最も根幹的な部分が満足にできない状態だったのだ。治るかどうかというよりも、せめて家の中では穏やかに暮らしたいといった気持ちである。

 さて、はじめに私がしたことは「ベッドに寝ている状態から、ベッドの脇に一時的に立ち、またすぐ横になる」という動作と「ベッドのすぐ隣に置いた椅子に自立的に着座し、またすぐベッドに戻る」という動きだ。

 それぞれ時間にすれば1分くらいのもの。なぜそのような短時間なのかというと、立つにしても座るにしても、長時間続けると確実に具合が悪くなることがそれまでの経験からわかっていたからである。1分程度という時間は、具合を悪化させることなく、かつ筋肉を使うことができる(≒最低限の機能を維持できるように体感できる)閾値であった。

 私は来る日も来る日も、"1分の試み"を続けた。手首には常にスマートウォッチを着用し、心拍数も同時にモニタリングした。3週間も続けた頃だろうか、始めはやっとの思いで座ったり立ったりしていると言った様相だったのに、やや、その辛さが落ち着いてきたように感じられたのだ。何が起きているのかはよくわからないが、悪い変化ではないように思える。

 そこで、立つだけでなくベッドの周囲を少し歩いてみようと考えた。ただ立っているのと(たとえゆっくりとでも)歩いてみることには、大きな差があることが知れた。使用する筋肉も異なるし、心臓に感じる負担感も異なる。立っているときは立っている時の疲れ方をするし、歩いているときは歩いている時の疲れ方をする。特に、心拍数の変動には大きな違いがあって、ただ立っているだけなら120BMP程度まで急激に上昇する(異常)だけなのに、歩いているときは90BPMになったり、110BPMになったり130BPMになったりと激しく変動する。しかし、どうやらベッドの周りを歩く程度の動きをしても問題はなさそうで(いや、心拍数がおかしいので問題はあるのだが)、調子が悪くなって後を引くといったことはなかった。

 次に時間を伸ばしてみることを思いついた。1分から3分へ、3分から5分へ、5分から10分へと。やはり、10分程度まとまって座ったり立ったり歩いたりすると問題があるようで、夜中になって急激に強い悪心や倦怠感が現れることがあった。罹患後早々に感じていたこの現象は、調べてみればPEM(Post Exertional Malaise)と呼ばれ、Long COVIDの発症者に見られることがある症状であるらしい。活動の量に見合わない症状の増悪が、行動から時間を置いて、急襲的に、かつ継続的に出現するというものだ。

 この時になってはじめて、不思議な症状の揺れ動きには、どうやらPEMと呼ばれる現象が関わっていそうだと認識できた。PEMには随分悩まされた。PEMが起こると全身が激しく消耗するような体感に襲われ、せっかく改善した体調が、少し前、あるいはだいぶ前の段階に引き戻されてしまうのだ。座る、立つ、歩くの試みを続ける中で、このPEMを起こさずに動ける範囲を把握し、その範囲内でできること“だけ”をすることが肝要なのではないか? と考えた。なぜなら、少しずつリハビリ的に身体機能を向上させようと試みても、PEMが起これば、再び横になっているしかない強力な症状に襲われて、休んでいる間に身体機能が下がる→また少しずつ動いてみる→またPEMが起きて逆戻りする……この繰り返しになって、いつまでも同じ状態から抜け出せなくなるように思えたのだ。

 従って私は「PEMを起こさない範囲の活動の量」を分単位で把握して、1日の内、その範囲内でしか体を動かさず、他の時間はずっと横になって休んでいるという過ごし方を心がけることにした。この試みはどうやらよかったようで、立ったり、座ったりしていられる時間は徐々に徐々に伸びていって、2ヶ月程度で、いずれもが1時間程度続けてできるようになっていた。

 この試みを続ける中で気をつけていたのが「姿勢」だ。誰しもが、幼少期に「正しい姿勢に気をつけましょう」と言われた経験があると思う。正しい姿勢とは何かというと ー その定義はさまざまあるが、骨格的にいえば「くるぶし、大転子(腸骨と大腿骨の関節)、肩峰、そして耳たぶが、地面から垂直に伸びる直線状に並んでいる状態」はひとつの目安だろう。この状態では、体の重さを骨格で支えている状態になるから、筋肉にかかる負担は最低限になり、筋疲労を生みにくくなる。

 筋肉にもうまく力が入らないほど弱っていたから、初めはこの正しい姿勢をとることそのもので筋肉が疲れていたが、次第に脱力しながら姿勢を保つ感覚が養われ、筋肉の位置や量が最適化されていくような感触もあった。

 同時に歩行の機能も改善した。はじめはベッドの外周をゆっくりと歩くだけだったのが、リビングまで、エントランスまで、表の小路まで、大通りまで……と、歩ける(歩いても体調の悪化を起こさない)距離が伸びていったのだ。歩行量も、スマートウォッチで正確に管理した。やはり時間と同じように、ある一定のところまでは体調の悪化を引き起こすことなく歩けるが、一定のラインを超えてしまうと、後になってPEMが起こる(こともある)といった具合だった。具合が悪くなるかどうかの閾値は割合とはっきりしていたので、歩数の管理には慎重になった。その閾値は1000歩、2000歩、3000歩……と、体調の改善に合わせて徐々に増えていったが、“安全圏”だと思っている範囲でも、存外に疲れを感じて、歩くことを中断する日も多かった。数字にはこだわったが、数字よりも、体感を上位の判断基準として常に優先した。

 数字といえば象徴的だったのは心拍数の変化で、当初は立ち上がるだけで120BPM、少し歩けば130BPMと言った様相だったのに、立って100BPM程度、歩いて110BPM程度といったように、まだ異常は残りつつも減少の傾向が見られたのである。心拍数の増加がなぜ引き起こされていたのか? 立つだけで、30BPM以上の心拍数の増加を認める状態を、起立性頻脈(POTS)と呼ぶが、私の状態は、数値だけでみれば、このPOTSに当てはまっていた。

 POTSはそれ自体がLong COVIDとは無関係に独立して発症することもあるが、Long COVIDの発症者が併発するケースも多いらしい。SNSを参照すると、苦しめられている人が多いことがわかる。心拍数の増減に関わる神経伝達物質の分泌の異常や、自己免疫による受容体の異常、循環器側の異常など、原因に応じていくらかのサブタイプに分けられるようだが、新型コロナウイルスの持つ特性なら、それらのいずれもを起こし得るようにも思えた。

 結局のところ、私の症状にどのような病理があったのかはわからないが、身体機能の改善と合わせて徐々に正常化していったということは、どこかの器官が不可逆的に損傷していたとか、恒久的な自己免疫の異常が起きていたというわけではなさそうだと推測できる。私の心拍数は、座る、立つ、歩くの試みを何ヶ月か続けていく中で正常化の道を辿り、臥位、座位、立位での心拍数の差がほとんどなく、歩行時は歩行の強度に合わせて上下するという極めてノーマルな状態に戻った。

 「心拍数が上昇する」という現象を、(ひとまず病理を抜きにして)考えてみれば、「循環する血液の速度を増やすことで、細胞への酸素の供給量を増加させている」という見方ができる。全身の各細胞への酸素の供給に関して重要な役割を果たしているのは、血管と血液だ。血管に炎症を起こし得るという新型コロナウイルスの特性と改善の経過から、私はひとつの仮説を立ててみた。

 急性期、新型コロナウイルスは全身の血管に損傷を与え、酸素の伝搬効率を大きく下げた。「起き上がって座る」「立ち上がる」といった、通常はなんの負担にもならない動作にも支障が出るほどに。だから、私の脳幹は心拍数を急激に上昇させることで、動作時の血液の供給量(≒酸素の供給量)を確保しようとした。

 つまり、人体の正常なメカニズムが失われた結果、症状が出ていたわけではなく、正常なメカニズムが“生き残っていたからこそ”心拍数の急変動が症状として現れたという理屈だ。実際、私は心拍数に作用する服薬を一切しておらず、症状は自然治癒の経過を辿っている。仮説が合っているかどうかはわからない。しかし言えることは、立ち上がるだけで30BPMもの上昇を認めた心拍数は、日々の試みによって、そして時間の経過によって、完全に治ったということだ。

 いつしか私は(ゆっくりと、1日の中に細切れに歩行の時間を作ることで)かなりの距離を歩けるようになっていたし、それに伴って、長期の臥床でやせ細っていた筋肉も、少しずつ、しかし確実に元通りのボリュームに向かって戻り初めていた。この段階では、まだ周囲の人々に歩調を合わせて素早く歩くことは難しく、無理にそうしようとすれば、息苦しくなったり悪心が現れることも多かったが、急襲的なPEMが現れることも、減っているように感じられた。回復の度合いを割合で表すなら、20%か25%かといったところだろうか。

 この節の始めに、灯りのない洞窟の例え話をした。心拍数を観察しながらの様々な試みを、この例えに置き換えてみれば、暗い洞窟の中で手探りで壁を探し、足元に危険がないかを確かめながら、1歩ずつ歩みを進めるという作業に近かったと思う。どの方向に出口があるのかはわからないが、壁を伝って、1歩ずつ歩みを進めていけば、とりあえずは、今いる位置から移動することができる。

 まだ明かりは見えてこない。しかし、確信を持って進み始めたのもこの頃だ。この道をずっと進み続けていれば、いつか出口が現れるに違いない。

【脳の回復:世界は脳が描いている】

 ここまでに記載した試みによって、私は室内での生活さえ満足にできない状態から、近所への用事を含んだ外出は、"自分のペースを守っていさえすれば"一応はこなせるようになっていた。久しぶりに眺める慣れ親しんだ街の様子は罹患前と全く変わっていなくて、世間は私がLong COVIDに苦しんでいることなど、全く無関心であることがよく知れた。

 街を往来する人々は眩しく見えた。私は療養中でゆっくりと1歩ずつ歩いているが、人々はさっさと歩き、機敏に各々の用事を済ませている。世間から切り離されて、私だけが訳のわからない世界に迷い込んでしまったように感じたし、私と同じように、このような思いを抱えながら生活をしている人が世の中にはいかほどいるものだろうかとも考えた。

 世間から切り離されている感じをより一層増長させたのは、ブレインフォグと呼ばれる脳機能障害だ。ブレインフォグを直訳すれば「脳霧」だが、私の体感としては、とても霧というような優しいものではなく、完全に重度の脳機能障害だと感じていた。

 初めの頃、話すことも、スマートフォンの画面を眺めることもできなかった私は、この時点では、最低限の情報収集とか必要十分な日常会話、ごく短時間の動画視聴などができるようになってはいたものの、まだまだ脳はおかしかった。割合で表すなら、罹患する前の20%か30%かの思考力といったところだろうか。専門的な記事を集中して長い時間をかけて読み込んだり、取り止めのない会話を楽しんだり、映画を鑑賞したりといったことはできなかった。

 なんとも形容し難いが、そうしたことをしようとすると、脳が締め付けられるような感覚になったり、脳に必要な何かが回っていないような感触が現れたり、不快感をともなう物質が分泌されているような感触が現れて、必ず体調が悪化してしまうのである。そうなると、再び体調を戻すのに数日を消費してしまう。この、“脳を使いすぎた”時の体調の悪化の仕方も、体を動かしすぎたときのPEMと似ていて、急襲的で連続的だった。

 さてどうするか。ひとまず自分の頭の状態をよく観察して、何ができているのか、何ができなくなっているのかを分析するところから始めてみようと考えた。私は、色々な行動を試す中で失われている機能を細かく把握しようと試みた。どうやら、話す、文章を読む、観察する、(それほど複雑ではないことを)考えるなど、単一の動作にはおおむね問題がないようである。いや、問題はあるが一応はできる状態であるらしい。

 つまり、複数の脳の機能を組み合わせて遂行するようなことが全くできなくなっているのだ。例えば“文章を参照しながら+それに対して自分が考えることを書き留めて”みたり、“登場人物のセリフから展開を予測しつつ+映像を眺め続け”たり、“時間の経過を意識しながら+何かを記入”したりといったことである。

 景色の見え方にも異常が現れた。夢なのか現実なのかわからないような感覚。見慣れた景色のはずなのに、知らない世界のように思える感覚。目の前で起きていることが、自分に関係のないただの映像のように思えてしまう感覚。こういう症状を離人感と呼ぶようだ。結局のところ、私たちは、いわゆる“五感”の情報を脳内で思考や感情と結びつけて現象の意味を判断しているから、いわばこれも脳機能障害だ。脳がうまく動かなければ、またその程度が大きければ大きいほどに、世界(外界)の認識に変化が現れるということになる。

 こう考えてみると、生活に必要なあらゆる動作が、複数の行動や思考、感情の組み合わせでできていることを痛感せずにいられない。

 買い物をするときは、店頭まで歩き+入店し+店内の様子を把握し+手に取ってみたい商品を発見し+感情が動き+眺め+触り+購入するかどうかを判断し+レジに運び+支払いをし+退店するわけである。仕事で資料を作るなら、情報を参照し+過去の記憶からパターンを引き出し+適切なフォーマットを検討し+悩み+決定し+必要な素材を収集し+記述し+必要な役割を果たせる状態になっているかを確認し+修正し+完成させるのである。

 料理も、着替えも、映画鑑賞も、景色を眺めて感想を抱くのも、誰かと連絡を取るのも、ほとんどあらゆる日常の動作が、こうした単一の行動が積み重なってできている。極端に思考能力が落ちているから、ありとあらゆる行動がうまくいかない。あるいはそもそもできない。身体機能に関しては、なんとなく元の状態に近づけていけそうな気配が出てきたが、脳機能障害はまた別問題だ。

 この問題に立ち向かうにあたり、私はどのような機序でこの障害が起きているかを考えてみたいと思った。機序を念頭に、どのような過程を踏んで脳の機能を戻していくべきか設計してから挑んだほうが、うまくいきやすいような気がしたのだ。すなわち脳神経が不可逆的に損傷しているのか、器質的には問題がなくとも伝達物質や受容体に異常があってうまく動かなくなっているのか、伝達物質でなく血流や脳内の免疫細胞が影響しているのか、それとも複数の要因が絡んでいるのかといった部分である。

 MRIとMRA(脳血管の造影)は済ませていて、両者でわかる範囲では器質的には損傷は起きていないという判断だったから(画像診断でわかる範囲では)器質的な損傷は起こっていないと考えてみることにした。

 そうなると問題は、伝達物質やその受け皿となる受容体、酸素や脳のエネルギーとなるグルコースを運ぶ血流にあるのではないだろうか? 私はそう考えた。

 結局、これも(どれもが)“私の”仮説であって、本当のところは脳がどのような状態になっているのか、現代の日本で受けられる標準的な医療では簡単に判明させることはできないわけだが、ひとまずはこれらに異常があるという考えを進めてみることにした。エンジンは壊れていないが、エンジンオイルが古びていたりガソリンの供給が十分でないから、エンジンが本来の出力を得られないという考え方である。

 うまく動かなくなっているエンジンを再び動くようにするには、どうするべきか? 脳は分解するわけにはいかないが、やはりどこかのタイミングで動かしてみるしかないのだろう。何度も書いているように、私が体験したタイプのLong COVIDは、体にしろ頭にしろ“限度を超えて使う”ような真似をすると、急激に全体的な体調が悪化するという特徴を持っていたため、あまり挑戦的なことはしたくなかった。ただし、肉体的な回復の過程から、主体的に働きかけるような行動は、機能の改善を起こし得る可能性を持っているということもわかっていたから、できる範囲で色々と試してみることにした。

 何をどう試していくか? Redditでの完治者の投稿をしばらく眺めていると、いわゆる「脳トレ」のようなごく簡単なゲームであるとか、ビデオゲーム、暗記の訓練などを用いて、適度に脳を使っていくという手法で脳機能を戻しているような投稿がちらほらと見受けられた。

 脳を動かした方が良いのか休ませた方が良いのかというのは、国内外問わずSNSでは度々議論を呼んでいるようで、何が正解であると評価しにくい部分があった。視覚や聴覚を通じて脳に入力される様々な情報を「刺激である」と考えてみると、おそらくこれは「“どの程度の刺激になら”耐えられるのか/耐えられないのか」という“程度の問題”であると思われる。実際、最も症状がひどいときには、カーテンの隙間から差し込む些細な光さえ脳に直接的に刺さってくる不快な刺激のように感じられたが、ある程度外に歩いていけるようになった頃には、穏やかな太陽光は心地のいいものに感じられた。しかしその時点でも、ビデオゲームに見られるような激しい光の点滅は依然として不快だった。回復に応じて「耐えられる刺激の強さ」に変化が現れたことを意味しているだろう。

 そこで私が考えたのは「鍛えるようにして無理に脳を使う」というのではなく、「自分がもともとよくしていた行動を、時間を区切って少しずつ日常の中で実践していき」かつ「適度に脳に負担がかかるようなトレーニングの要素も(やはり限度を意識しながら)局所的に取り入れていく」というやり方である。

 どういうことか? 私は元々、本をよく読んでいた。だから本を読んでみる時間を作った。音楽をよく聞いていた。だから、音楽を聴く時間を作った。たまにゲームをしていた。だから、ゲームをする時間を作った。何かを暗記するようなことが得意だったが、記憶力が失われている。だから、音楽の歌詞を正確に暗記できているかどうか、毎日自分でテストするようにした。

 夜に1日を振り返って、印象的だった出来事を反芻する習慣を作った。朝起きてから夜眠るまでの行動の記録を取り、眠る前(不眠症状で相変わらず眠るのには苦労していたから、正確には「眠ろうとする前に」だ)にそれらが思い出せるかどうかを、メモを参照しながら確認するようにした。

 はじめは思うようにいかなかった。思うようにいかないだけでなく、“異常に脳が疲れたような”感覚が現れて、余計にうまく動かなくなるような日もあった。そのようなときは、その異常な疲労感が発生する前の体感に戻るまで休息するようにした。復調(ずっと体調は悪いから、復調という言葉を使うことに違和感はあるが)を感じてから、再び試してみる。とにかくやめないで続けた。続ける内、やはり肉体と同じように、思考にも1日の内に使える限度のようなものがあることを理解し、その量を具体的に把握し始めた。

 本なら数十ページくらい、ゲームなら20分程度、歌詞の暗記は無理に覚え過ぎようとし過ぎない程度、音楽なら大人しい曲調の楽曲を数曲楽しむ程度。このくらいが、その時点での私にとって適切であるようだった。毎日、歩行の訓練を重ねながら、これらを“悪化が起こらない範囲”を必ず意識しつつ並行して実践した。

 明確な変化が訪れたのは、こうした試みを毎日続けて、2ヶ月か3ヶ月かといった頃だったろうか。以前と同じことを試していても、脳に負担がかかる感覚が減っているように思えた日があった。「脳に負担がかかる」とか「脳が異常に疲れる」というのは、何日も眠らずに強い集中力を要求されるような作業をし続けたかのような、極度に疲れた感じが急襲的に現れてしまう現象を意味する。また、脳が何かに締め付けられていたり、脳に毒物を直接塗布したかのような物理的な不快感として現れることも多かった。

 そうした不快な感覚が徐々に弱まり、確実に起きにくくなっていくのを感じたのである。これはおそらくいい方向に進んでいる。そう思えた。その頃に映画を鑑賞してみようしたところ、以前はただ映像が流れているのをぼんやりと眺めているだけで、全く意味が飲み込めないでいたのに、罹患前と同じように楽しめるようになっている。一気に一本の映画を観るのはまだ難しかったが、1日の中で何回かに分けて、長編の映画を鑑賞できるようになっていたのだ。

 私の脳に何が起こったのか? これも本当の答えはわからないが、“以前と同じような使い方”にこだわり続けたことによって、再び同じような場所に同じような神経伝達物質が密集する状況が生まれ、同じような血流が復活し、結果的に同じような機能が果たせるようになった……こう仮説立てることはできると思う。また脳は、仮に神経細胞が失われたとしても、損傷しなかった神経細胞が再編成され、同等の機能が果たせるようになる(場合がある)特性も持っている。

 今になって振り返ってみると、突然機能が回復したように感じられる瞬間もあったし、ある程度の期間の訓練の積み重ねによって、以前と同等の機能を取り戻したように感じられる瞬間もあった。

 元通りに戻った部分と、元通りには戻らなかったものの、この特性によって"同じような状態”に再編成された部分とがあって、両者の足し算で“本人としては以前と全く変わらない状態の脳に戻ったと感じられる状態”に落ち着いたというのが私の推測だ(さらに、ダメージを受けたのが優位半球であったか劣位半球であったか、ダメージは局所的なものだったか全体的なものだったか、仮説のうち、主な問題は血液か血管か、受容体か、白質や灰白質か、あるいはその
全てか、全てなら比率としてはどうか……などなど考えていけば、より「脳の回復」を掘り下げることが可能だと思うが、すべての解答を得ることはやはり不可能に近いから、これ以上は言及しない)。

 この節で書いた試みを続けていった結果「脳を使うと疲れる感じがする」という現象は次第に起こらなくなり、私はついに元通りの職務を短時間から始めることができた。初めは、1時間や2時間から(インプット/アウトプット量に換算すると15%程度)。次に3時間や4時間(15〜35%程度)。その次に5時間や6時間(35〜55%程度)。それぞれ1ヶ月程度の“慣らし運転”の期間を設け、異変を感じたら、どのタイミングでも直ちに休息を取るように心がけた。時間の単位が増えても、回復の進み方(進め方)は、1分を5分に伸ばしていくような過程(そして体感)と変わらなかった。6時間程度仕事ができるようになった頃には「なんとなく、極端に集中したりしない限りは、1日仕事をしても問題がなさそうだ」と感じられるようになり、週の中に休みを設ける形で復職(60%程度)。その後は「元通りに仕事をする日」と「元通りの時間働くが、仕事のボリュームは少ない日」を設け(80%程度)、最後には完全なフルタイム(だが、過密なスケジュールを避け、無理をしないことを心がけて90%程度)に戻った。

 いま、私は長距離の出張や長時間の会議を伴うフルタイムの頭脳労働を毎日続け、時には長時間の残業をして、帰宅後にはいつも読書やゲームを楽しむことができる。仕事帰りにはしばしば飲酒と談笑を楽しむこともできる。何もかもが元通りだ(100%)。物質的な変化が(あったのだとすれば、それらが)完全に戻ったのかどうかは本当のところ、わからない。「完全」という言葉を「あらゆる物質的変化が、変化を起こす前の状態に逆戻りする」と定義すれば、完全ではないのだろう。しかし少なくとも、“完全に戻ったと本人は感じられている”し、あらゆる“頭を使う行動”に一切の違和感を覚えていない。

 脳がうまく動かなくなるという体験は、まさしく世界の崩壊であった。世界は脳が描画している。「自意識が、外界をどのように捉えるのか」が私たちそれぞれに世界というものを見せている。私たちが見ているのは、世界そのものというよりも、五感を通じて認識できる世界のごく一部分と言った方が近い。脳が壊れれば、世界も歪んでしまう。私の世界は一度崩壊したが、いまは元通りの姿に戻っている。朝陽は心地よく、夜闇の月は美しい。

【精神の回復:精神の宿る場所】

 「精神的な回復」にも触れてみたい。精神とは何か? この主題は、太古からさまざまな人物が、また、さまざまな文化がそれぞれの解釈を持って扱ってきた。時にそれらは、科学の時代である現代の視点から見れば空想的であったりもするが、空想的ながらに本質をついているような解釈もあったりして面白いものだ。

 精神というものを生理学的な側面から定義してみると「外界で起きた現象に対し、個々の肉体が反応した結果として起こる、体内の物質の変移と、それが生み出す思考・感情・肉体の振る舞い」といったところになるだろうか。

 こう考えたときに、私の精神は新型コロナウイルスへの感染によって「狂ってしまっていた」とか「壊れてしまっていた」と形容できると思う。明記しておきたいが、新型コロナウイルスへの感染によって引き起こされるあらゆる症状は、ウイルスの特性が引き起こす物質的な異常であって「気分の問題」などでは全くない。

 しかし気分の問題ではないにせよ、結果的に気分に大きく影響はするのは確かだ。私の精神状態は闘病中、特に前半は最悪だった。どちらかというと、体を治したいとかいうことよりも「苦痛から解放されたい」という気持ちの方が強かったと思う。

 ここにまとめたさまざまな試みがうまくいき、回復の傾向が訪れたからこそ、半ばからは希望を持って療養生活を送ることができたが、回復が起こることなど全く考えもつかなかった当初は、肉体的にはどうにか生きていても、精神的には破滅している状態だった。

 いまはどうか。毎朝、私は希望を伴って目覚めている。今日もいい日になるだろうと、自然に思えている。今日もいい日にしようと考えている。この精神の働きは私にとって正常なものだ。「一刻も早くこの苦しみから解放されたく、明日が訪れないでほしい」と毎秒のように想起していた心が、今日を前向きに生きるエネルギーをどのようにして取り戻したのか。

 その要因は「私は崩れた体調を回復させることができた」という自信によってバックアップされている部分と、単純に、時間経過による物質の変移とに分けられると思う。

 前者は簡単だ。先月は起き上がれなかったのに、今月は普通に起きられるようになっている。2ヶ月前は歩けなかったのに、今月は歩行に困った日がない。ゆっくりでも歩けている。映画を鑑賞することができた。パソコンを30分使っても体調が悪化しなかった。先月より1時間も長く働くことができている。フルタイム相当の時間働いても体調が崩れなくなった…………こうした「成功の意識」が積み重なって自信になり、気持ちに弾みがついたということである。生活でも、仕事でも、同じだろう。できなかったことができるようになっていくとき、人の心は心地よさを感じるものだと思う。

 後者については、少しの考察が必要になりそうだ。「時間経過による物質の変移」をもう少し噛み砕いてみよう。

 「感染によって分泌や代謝に影響が出た物質があり、それ(それら)によって、うまく機能しなくなっていた身体の部位があったが、時間経過によって次第に分泌や代謝も正常化していった」と表現することができるだろう。

 定期的に詳細な検査を重ねていたわけではないから、これを裏付ける定量的な数値は存在しないし、客観的な証拠がどこかにあるわけではない。ただし、私の主観においては、「時間経過による正常化」を強く感じる出来事があった。突然、強く前進しようと考える前向きな気持ちが湧き上がってきた日があったのだ。

 こう書くと、「元気になってきたから、気分が前向きになってきただけじゃないのか?」と思われる方もいるはずだ。前述したようにその側面があったことも否定しない。ただ、私が感じていたのは、もう少し明確に感じ取れる変化だった。

 例えば、朝から何も食べていない空腹の状態で飲酒をするとしよう。そうすると、多くの人は気分が高揚したり、反対に異様に落ち込んだりするはずだ。これは、アルコールが大脳新皮質の機能を麻痺させ、思考が緩慢になる(高度な思考で制御していた感情が表出する)からであると考えられているが、このとき、主観では気分、感情といった形を持たない精神の働きに、明らかな変化が起きていることを知覚できるだろう。

 私が感じた「突然の気分の盛り上がり」は、この「アルコールの摂取によって生じる明確な変化」に近い体感を伴ったもので、「明らかに気分が前向きになっている」と感じるような劇的な精神の変化だった。劇的であって、かつ不自然にも感じない。まるで、SARS-CoV-2に感染する前の元気な自分に突然再会したような体験だった。より文学的に例えるならば、「最後まで足りていなかった歯車が得られた」といった感触である。

 ともかく「健康な心って、こんな感じだよな」と感じられるような変化が、回復の過程の最終の段階になって訪れたわけである。なぜ、このような回復が最後になって起こったのか?

 肉体が回復し、脳(主に頭脳労働における能力)が回復し、その後になって起きた「精神が元気になった」としか言いようのない回復。精神について「外界で起きた現象に対し、個々の肉体が反応した結果として起こる、体内の物質の変移と、それが生み出す思考・感情・肉体の振る舞い」と前述したが、これが解答であるように思う。

 つまり「精神の回復」は、肉体と脳、双方が「元に戻った」と感じられる水準まで回復し、外界で起こる事象に対する反応が正常化し、また、それを自覚できるようになった結果として現れた感覚なのではないか? ということである。「私の精神を取り戻したい」という気持ちが、私の精神を取り戻す必要条件を作ったとも言えるだろう。私はそう思っている。

【能動的な回復:灰になるまで】

 ここまで書いたことを実践した結果、時折のじんわりとした頭痛や視界のチラつきなど、いくらか不快な症状を残しつつも、私の肉体は体感で8割前後の回復を見せていた。

 この頃になると心境もだいぶ楽観的になっていて「ここまで回復すれば、あとは元通りの体調に少しずつ近づけていけば良い」と思えるようになっていたし、(やはり無理をしなければ)日常生活で困ることはほとんど無くなっていた。

 だが、この「無理をしなければ」が私にとっては非常にもどかしかった。当初は「家の中だけでも普通に過ごせれば」と思っていたくらいなのに、それを通り越してしまえば、よりいい条件を求めたくなるものである。何度も書いているように、Long COVIDは「限度を超えるとPEMが起きて体調が著しく悪化する」という不思議な特徴を持っていたから、挑戦的な試みは取り入れにくかったし、リスクも大き過ぎた。だが、永久にリスクに怯えて生きていくことも拒否したかった。

 ここでまた2択問題が現れた。「概ね元通りだが、無理は出来ない体調」を許容するのか「リスクを承知で完全な元通りを目指してみるのか」である。

 正直なところ、どちらも嫌だと思った。どちらも嫌だが、前者を選択すれば、これから先、どこかで体調を理由にして何かを諦めるシーンが出てくることは容易に想像できたし、どうせ一度生活は崩壊しているから、悪くなればまた地道に体調を戻してみれば良いという覚悟も決まり、私は完全を目指すことにした。

 しかしやはりリスクは大きい。無理をしない範囲なら生活が出来ているのだから、その状態に満足すれば良いのかもしれないとも何度も考えた。でも、私の心はそれを許してくれなかったのだ。

 しばし考えてみて、リスクを最小化しながら完全を目指す方法はないものだろうか? と、自分の中で、少々発想が変わってきたのを感じ取った。無理をしてしまうと悪化するなら、無理をしないで体力や情報処理能力を高めることが出来れば問題にならないわけである。

 体力を高めるのに必要なのは、やはり負荷をかけた運動だし、情報処理能力を高めるのに必要なのは、やはり実践と学習である。限度を超えた負荷=悪化は心の深い部分に刷り込まれているので、恐怖心も強い。だが、回復をこの先へ進めたい。

 まず試してみたいと思ったのは、ごく短時間の負荷をかけた運動で様子を見て、問題が起こらなければ、徐々に目的の場所(理想的な体力)まで、負荷の量と質を高めていくというやり方だ。

 突然30分も走れば間違いなく体調を崩すだろう。なら、5分程度、心拍数が上がるような運動をする分にはどうだろう? 試してみないと分からなかったが、この頃、平坦な道を長時間(1時間や2時間)歩いたり、傾斜を伴う道を軽く心拍数をあげながら歩く分には問題がなかったので、おそらく問題がないのではないか? と思えた。異なるのは「能動的に心拍数を上げ、肉体に負荷をかける意識を持っているかどうか」だけである。よりシンプルに言うなら「勝手に心拍数が上がるのか、上げようとしているのか」である。

 実際に試すとやはり問題は起きなかった。罹患前の健康的な体感とは違いを感じる。しかし危うさはない。継続しても体調が悪化することは無さそうに思える。試行していく内、時折は「今日は疲れを感じるので何もしないで休んだ方が良い」と感じることはあったし、運動に対する反応も慣れ親しんだ体の感覚とは異なっていたが「危険なことをしている」という感じは全くしなかった。

 考えるに、この時点で私の肉体は、軽度の運動に耐えられる程度まで回復を進めていたということになるのだろう。これ以前に同様の試みをしても失敗していたに違いない。

 ともかく、ごく軽いものであっても、運動が出来るようになった。運動が出来るなら体力を高めることが出来る。体力を高めることが出来れば、より大きな負荷に耐えることができ、更に体力を高めることが出来る。

 この時点でも心拍数、睡眠時間、1日の行動の量などは絶えずスマートウォッチを用いてモニタリングしていたが、どうやら運動に対する正常な反応≒強い負荷に対する順応性は失われていなかったようで、5分程度のごく軽いジョギングはバイタルに悪影響を与えていなかった。

 5分の早歩きは、やがて15分程度のインターバル運動(高速の歩行と低速の歩行を交互に繰り返す)に変わり、30分程度のジョギングに変わっていった。

 次第に私は、「これを繰り返していけば徐々に正常な状態へと近づいていけるのではないか?」と考えるようになった(ちなみに、私の基準で言う「正常な状態」は、「1時間くらい走るとその時は疲れるが、翌日に疲労感が残るようなことはなく、普通に朝起きて1日中元気に過ごせる」程度の体力である)。

 その程度まで体力が高まれば、もはや「極端に疲れやすい病態」の域から脱していると言っていいだろう。「1時間くらい走ると、その時は疲れる」というのは、ごく当然のことである。

 考え方としては「限度を超えると体調が悪化する」の「限度」を、およそ日常生活で使うことがないレベルまで押し上げることが出来れば、「日常生活で限度を超えることも無くなるから、体調が悪化することも無くなるのではないか?」という方向である。リスクを抑えながら完全を目指す道は、結局のところ、これまでに辿った回復の延長にあるものだったとも言えよう。

 この頃から生活の中に継続的な運動を取り入れ、狙い通り、体力は増大を見せていった。すでに、どこまでが無理で、どこまでが無理でないのか、よく分からなくもなっていたが、体力は日々回復を重ねていき、適度に運動した結果、睡眠も深くなり、心地よい熟眠感も得られるようになっていった。

 この頃の体感を形容するなら「眠れず、日に日に体力が落ちていくという発症時の状態を、逆戻りしていくかのような感じ」だ。実際に、そうなのだと思う。睡眠時には成長ホルモンが分泌されるが、成人の肉体にとって、成長ホルモンは損なわれた組織の修復に大きく作用する。よく眠れるようになれば、損傷を受けた組織は速やかに代謝されやすくなり、正常な組織に置き換わりやすくなるのだ。

 今になってこの時の私の状態を評価するなら「急性期に激しく損傷を受けた影響はまだ残っていたが、徐々に正常な組織の割合が増え、運動に耐えられる状態にまで回復していたことで、運動をすれば体力が高まるという自然な肉体の機能が取り戻されていた。運良くそのタイミングを感じ取ることができ、運動を開始することが出来た。また、睡眠によって成長ホルモンが下垂体から分泌され、損傷した組織を置き換える機能についても、正常に近い水準まで回復していた」といったところになるだろう。

 この節の総括をしつつ、「運動」という概念について少し考えてみたい。たとえば「以前は早歩きをするとすぐに息が上がっていたが、毎日ウォーキングをしていたら段々と軽く歩けるようになってきた」という台詞を聞いて、「そんなことが起こるはずがない」と思う人は、あまりいないと思う。運動の強度に対する順応は、ごく当たり前の人体の反応であるからだ。

 「運動」という言葉を用いると、何か、日常生活からかけ離れた特別なものを想起してしまいやすいが、考えてみれば肉体を動かすあらゆる行動は、筋組織に要求された量の栄養素(それを伴った血液)を送り込む脳の活動という点で本質的に運動であり、その程度が強くなれば、"より運動然とした運動に変わる"というだけのことではないだろうか。5分の早歩きを1時間のジョギングに変化させていく過程は、上体を起こせない状態から起こせる状態に高める過程と、グラデーションで地続きになった強度の進歩だと思う。その程度があまりに大きくかけ離れているから、まるで全く異なった行為に思えてしまうが。

 結局、心配していた悪化はついに起きず、私の体力は次第に万全なものへと近づいていくことになる。私の中には「私を苦しめた病を徹底的に叩いて、跡形もなく体から消し去りたい」という好戦的な意識が芽生え始めていた。私の持っているエネルギーが、Long COVIDの持っているエネルギーを上回ったように感じられたのは、この頃だ。

 この時期に起きた反応の数々をいまになって振り返ってみると、ひとつの疑問が浮かんでくる。それは「色々と試行錯誤したから挑戦ができるようになったというよりも、むしろ、自然な経過として治癒していった結果にいろいろな挑戦を受け付ける体の状態が出来上がったのではないか?」という疑問だ。

 平たく言えば「色々したから治っていったのではなく、治ってきたから色々できるようになったんじゃないの?」ということである。

 この点についてはしばし考えてみたが、私の体感は「両方」だ。少し掘り下げてみよう。条件を整理すると「限度を超えると悪化する」は病理の生んだ特徴である。そして「体/頭を使うと機能が活性化する」は人体そのものが基本的に持つ仕組みである。

 個人的な体感として、回復がある程度進み、日常生活を負担に感じなくなってからは、この両者は必ずしも競合しないように感じられた。つまり“限度を超えると悪化する”のは確かだが、だからといって「よく使う部位の筋組織が増大する」とか「毎日続けていると慣れていく」といった機能そのものが破壊されているわけではなく、両方の特徴が共存しているように感じられた、ということである。

 自らの行動を振り返ってみると「限度を超えると悪化する」を体感したタイミングから、その増減に応じて行動の量を調整していたから:自然治癒力によって耐性が向上して→それに応じて行動を増やすと、筋組織の量が増大し→それによって耐性が向上し/かつ、自然治癒力によっても耐性が向上し……というサイクルを繰り返していたと評価できるように思う。

 結論づけるならば、勝手に治っていったから何かが出来るようになった面もあるが、何かが出来るようになることは、“次の何か"をしやすくもしてくれた。したがって「治ったからできるようになった」と断定的に言うこともまた難しい。「治っていくと出来る」と「出来ると治っていく」というふたつの体感は、裏と表、あるいは陰と陽のように切り離せず、またいつも交互に、上昇の流れを描く螺旋のようにして現れていたように思える。

 悪化を重ねていたとき、また症状が停滞を見せていたときは、無理に限度を超えてしまうと→体調が悪くなってますます行動の幅と量が狭まり→より体力が衰え→限度を超えてしまいやすくなる……と言うループを辿っていたから、この部分でも「回復の過程は、悪化の過程を逆戻りしたような感じ」と表現できると思う。

 病の勢いが強く、盛大に燃え上がっているときには、病理を宿す体の持ち主である私にさえ病には手出しができなかった。「最強の敵」といった様相だった。勢いがやや収まってくると、消火活動(ここでは、さまざまな試みにより病理の影響を鎮めることを意味する)が効き始めるようになった。「最強の敵だが、弱点はある」ことに気づいたのだ。「おおむね日常生活には困らないが、元通りの元気な体とは異なる」といった、闘病の中でも比較的長く続いたフェーズになると、病より、私の方が優勢になっているように感じられた。でも、完全に退治できたわけじゃない。いわば「燻りが残っていて、病が再燃する恐れがある状態」とでも言えるだろうか。

 燻りさえ残しておけないと私は思っていた。「燃え尽くして、もう燃焼の可能性を持たない灰になるところまで=病の影響が根絶するまで見届けたい」と言うのが、この時期の私の心境だ。それは健康を害した悲しみとかストレスというよりも、もはや執念から生まれる闘争心に近いものだ。結果的には、私の執念の方が勝ったということになるだろう。かつて強い力を持っていた熱病は細かな灰になった。しばらくは辺りを漂っていたものの、風に吹かれて、やがてどこかへ消えてしまった

【この文書の総括:歩いた道を振り返る】

 あれは「明日がこないでほしい」と感じるほどの苦痛だったが、こうしてまとめてしまうと「SARS-CoV-2への感染後、一時的に大きく調子を崩したが、色々と工夫して順調に回復した記録」に見えてしまう。実際に体験してみれば、それほど生やさしいものでないのだが、もしも私がSARS-CoV-2に感染しておらず、長期的な症状も経験していなければ、この文を読んでも、あの苦痛を想像することは決してできないだろう。

 また、この記録は1年6ヶ月程度の経過をまとめたものである。私はその程度の期間で元通りの生活に戻れたが、それよりも遥かに長い期間、強い症状に見舞われ、療養生活を余儀なくされている患者が多数いることも記しておきたい。何度か書いているように、私は上体を起こすことが困難なほどの状態で、比較的重症度が高く、また、多くの症状を経験した患者であると思われるものの、症状の種類や継続する期間が患者によって全く異なることも、Long COVIDの問題を複雑にしている。ある患者には通用する方法が、ある患者においては悪化を招く。ある患者においてはうまく通じなかったリハビリの手法が、ある患者においては著効する。SNSでの体験談を通じて、こうした現象を幾度も目にしてきた。

 ストレートに考えれば、これらは、急性期に生じた障害部位や範囲に個人差があり、その差が、経過の違いとなって現れることを意味していると思う。また私の体験の範囲では、どうやら重症度が高いからといって、回復の経過が著しく長くなるとも言えないようだ。おそらく反対もあり得るのだろう(急性期は比較的軽症だったのに、Long COVIDを発症してからの経過が長くなるパターン)。

 この、程度の質や範囲の問題に、「Long COVID発症後の“過ごし方”が、回復の経過にとって、どのように影響するのか?」という疑問を掛け合わせてみると、さらに謎は深まる。

 何度目かの繰り返しになるが、私は、Long COVID発症後、比較的早い段階で「“限度を超えて使う”ような真似をすると、急激に全体的な体調が悪化する」という法則を強く体感し(またそれは、国内外のSNSでも、強い倦怠感を伴うLong COVIDにおける注意点として広く喚起されていた)その時点から「悪化を起こさない範囲」を厳守する生活に切り替える意識を強く持っていた。それまでの日常生活の全てを一度忘れることに決め(それに伴って社会的な意味で、あるいは現実的な意味で色々な問題は起きたものの、詳しくは言及しないし、まずは命があればそれでいいと納得することにした)、感染でダメージを受けた肉体と脳に、追加のダメージを起こさないための、新しいルーティンを設けた。時間を置いて症状の悪化をきたす行動を発見すればそれを制限し、行動の量や質を変更する際には、必ず試験的に実行し、問題がないことを確認してから、ルーティンに取り入れることを心がけた。そして「限度を超えず、できる範囲の(体調の悪化を招かない)行動」を毎日続けた。これらのことが、自らの回復にとって重要な鍵を握っていたと感じているが、この法則は他の誰かにも通用するのか? この点には謎が残る。

 だが療養中、積極的にSNSを使用していたとき、闘病の同士たちと、Long COVIDにおける独特なリハビリの手法について毎日のように会話していた時期があった。そうすると、やはり「限度を超えると悪化するが、限度を超えない範囲なら、行動を心がけたほうがいい結果になりやすい」という体感を持つ人が多いように思われた。その体感は、Redditで情報を集めているときに頻繁に見かけた体験談と、非常によく似てもいる。私は(私たちは)回復を目指した試行錯誤の中で、回復した者たちが語っていた感覚に辿り着いた可能性がある。「複数の患者の体験談」という裏付けでは安易に結論を出すことはできないが、少なくとも私を救った大きな要素が、この法則であることは疑っていない。SNSでの風潮に言及すれば、強い倦怠感を伴うLong COVIDにおいて「徹底的に休むべきなのか」「"動いてみる"べきなのか」というのも度々議論になっていた。これについてもどちらかに断定するのは難しく、徹底して休んだ方が良いタイミングがあり、活動した方が良いタイミングもあるということなのだと想像する。

 また、療養中にいくらかの薬とサプリメントを摂取していたが、この体験記ではその名称を紹介していない。なぜなら、いずれも症状を根本的に除去するような効果は体感していないし、前述したように、Long COVIDはある患者にとっては適正な効果を発揮するものが、一方の患者にとっては不適正で、かえって悪化を招くという現象が頻発するように思えたからだ。また「回復していた者が飲んでいた」という枕詞とともに、名称が一人歩きしてしまう可能性も無くしたい。投薬によって得られた効果は私にとっては「わずかに脳の圧迫感を軽くしてくれる」とか「眠りの質を少しは改善させてくれる」「痛みや強張りを多少は抑えてくれる」といった体感にとどまっていた。何か単一の薬剤によって全てが根治してしまうというよりも(そうした例があるのかはわからない)、本稿で述べてきたような自己治癒力を引き出す習慣を軸にしながら局所的に症状を抑えたり、症状の改善をサポートするような考え方が、私には合っていたように思う。

 ついでに触れれば、栄養には徹底してこだわっていた時期がしばらくあり、その頃はトマトや玉ねぎ、大葉など、抗酸化作用を持つ野菜を積極的にとるなどしていた。体感は悪くなく、頭痛や筋肉の炎症感などいくらかの症状を軽減してくれたように感じたが、病理を解消する助けをしてくれたのか、そもそもの健康状態を改善した結果の体感だったのかは、やはりよくわからない。また、発症から日が浅いうちは固形物を満足に摂取することが難しかったが、歩行の距離が伸び始めた辺りからは食事の量も増えていき、良質なタンパク源を摂ることにも気をつけていた。すなわち十分な量の肉、魚、豆である。

 体に良いとされている食品や栄養素はさまざまある。しかし、人体の優れたところは、取り込んだ多様多種の栄養素を円滑にエネルギーに変換でき、エネルギー源によらず平均的にパフォーマンスを発揮できる点にあると私は思っている。それは、いつでも望んだ食べ物が手に入るとは限らない太古の環境から現代に至るまでの人の進化の中で、気の遠くなる時間をかけて獲得した、優れた能力だ。食品や栄養素にこだわり過ぎた結果、極端に特定の栄養素ばかりを摂取するようになっては不自然だと思うし、時には添加物を含む食品も存分に楽しめば良いのではないか、むしろ、多少体に悪いものを食べたくらいでは損なわれない方が、本当の健康に近いのではないか、という程度が、現在の私の食事に対する意識である。

 少々話を変えてみたい。哺乳類の肉体は「生体恒常性」や「ホメオスタシス」と呼ばれる性質を持っている、ごく簡単に言えば、恒常的に一定の状態を保とうとする性質である。身近な例なら、極端に痩せれば食欲が増進し、栄養の吸収効率が高まって太り始め、すぐに体重が逆戻りするし、気温が高ければ汗が噴き出して体温を下げようとする。アルコールなど外的な要因によって極度に精神状態が変化すれば、その原因物質は急速に代謝され、速やかに元の精神状態に戻る。例に挙げた現象は異なるメカニズムが起こしているが、目的は、生体の状態を維持するという点で共通している。異常な(恒常的に保たれている状態から離れた)状態を、正常な状態に近づけようとする作用は、人体がもともと備えているのだ。

 この法則を念頭に、「悪化をしない範囲で行動の量と質を僅かずつ高めていく」という行為を読み解いてみると、私のリハビリの過程は、病理によって失われた恒常性を、徐々に正常な状態に押し戻していくような行動ではなかっただろうか。

 人体の生理的な機能についてもう少し触れてみたい。たとえば「反跳性不眠」という現象がある。これは、ある種の睡眠剤を日常的に服用している状態から突然服用をやめると、途端に、病的に眠れなくなってしまうという現象である。睡眠剤を毎日服用する状態に体が順応した結果、睡眠剤なしでは眠気が起きにくくなっているわけである。外的な要因に対して、肉体が恒常性を保とうとした結果として起きる現象であると言えよう。

 睡眠剤の例を続けよう。反跳性不眠を起こさないためには、徐々に睡眠剤の服用量を減らすことが肝要であるとされている。多量の睡眠剤の服用に慣れている状態から、突然睡眠剤を断ってしまうと眠れなくなるから、少しずつ減らすことで、睡眠剤の恩恵を受けつつも、生体の機能としてのノーマルな眠りを呼び戻していこうという理屈である。

 睡眠剤だけでなく、ある種の薬剤においてはこうした漸減的な減薬が取り入れられる。“突然の”あるいは“急激な”変化に対して、人体が対応できなくなることを防ぐために、このような方法が用いられているわけである。苦痛を生む機序としては全く異なっていても「急激な活動量の増加が異常を呼ぶために、様子を見ながら活動の量を漸増させる」という行為と、どこか似た法則を感じないだろうか?

 体を起こすだけで悪化してしまうなら、体は起こさない。会話をするだけで悪化してしまうなら、会話はしない。ただ、屍のように横たわって息をするだけ。生命維持に必要な最低限のカロリーを摂取するだけで、何もできない24時間は苦痛そのものだ。だが、仕方がないからそれを続ける。

 そうすると、わずかに楽になる時間帯が現れる。すかさず、瞬間的に、体を起こしてみる。少しの時間なら体を起こすことができた。私は体が起こせない状態から、少しだけ体を起こせるようになった。わずかな変化だが、確実な前進だ……こうしたことの繰り返しが、やがては激しい肉体的な消耗を要求する精力的な活動と、職務に必要な思考や情報処理を取り戻す道を作り、私を病から解放してくれた。私はそう体感している。それは、小さな種に根気強く水をやり、様子が悪い方へ変化していないか注意深く観察し、良好な環境を維持し、大木になるまで育てるような過程に似ているかもしれない。

【おわりに:洞窟の出口】

 はじめに書いたように、この体験記は特定の治療、医院、栄養素を推奨する意図を持っておらず、また個人的な体験の域を脱するものではない。だから実際のところ、このように流れで振り返ってみたところで、誰かのためになるかどうかも分からない。すべては私の個人的な療養の記録であるという意図から、タイトルも「日記」としている。

 ただ、この体験記に書いた重度の症状に襲われていた私が、今では全ての症状から解放され、通院も治療も、さらに言えばセルフケアなどの健康管理も特に必要のない状態になっていることは事実である。フルタイムに加えて数時間程度の残業をしても何も起こらない。回復後は趣味の登山にも復帰している。もちろん、光や音に対する過敏症状も残っていないし、気圧や気候の変動に影響を受けることもない。

 私たちの体を物質的に評価すれば、日々、様々な内的/外的要因に対して反応するメカニズムの集合体である。これは、生命が維持されている限り、良い方向にも、悪い方向にも、変化の可能性が常に同居していることを意味するだろう。

 悪くなった体調が、元に戻るとはどういうことなのか。落ち込んだ体調に対して良い変化を継続的に起こし、やがてその状態に恒常性が生まれたとき、そして様々な外界からの影響を受けてもそれが容易く損なわれなくなったとき、その状態を「健康」と呼ぶべきではないだろうか。

 Long COVID発症の機序や、その範囲、種類が個人によって異なる(可能性がある)以上、“変化の鍵”にもおそらく個人差があるのだろう。だが、回復の要素が揃い、全てが噛み合った時には、出口がないかのように思えた洞窟に、出口の扉を見出すことができるはずだ。

 2019年に突如蔓延した熱病が私に体験させたのは、出口の見当たらない絶望的な洞窟だった。今になって思えば、出口がなかったわけじゃない。あまりにも暗過ぎたから、見つけることが出来なかったのだ。たどり着くための道のりが、想定したよりもずっと困難なものだったから、なかなか見えてこなかったのだ。

 その暗い洞窟は、誰しもが感染という些細なきっかけで迷い込んでしまうかもしれないものだ。だが同時に、迷い込んでしまった洞窟には出口があるとも思う。それは洞窟の奥深く、見つけにくい場所にある。簡単に辿り着けるとは言えないのかもしれない。でも誰しもが持っていて、出口の扉はいつも肉体の持ち主が探り当てるのを待っている。私はそう信じている。

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