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私の会話はどこかおかしい

私は今までの人生で、何かを自分の中から生み出しては、それを他人の目に晒すという経験を殆どせず過ごしてきました。
人生をかけて所謂「アウトプット」を徹底的にして来なかったのです。
するとどうでしょうか、何を見聞きしても当たり障りのない、どこかで誰かが言った言葉しか出てこなくなっていたのです。
映画を見ては「面白かった」、音楽を聞いて「良い曲だね」など、具体的にどこが良かったのかを説明できないのです。
恋人に私のどこが好きなの?なんて聞かれようものなら、うーん…と相手を困らせるほどに。
好きに理由なんてないよ、なんてその場しのぎの回答をしては相手を傷つけてしまったこともあります。
どうやら自分の頭で考えて、自分の言葉で伝える力がとうの昔に失われてしまったようなのです。変な話自分の言葉には自信を持てず、責任も持ちたくありませんでした。

さてここでタイトルの「私の会話はどこかおかしい」についてですが、例えば私と会話をしたことがある人は気付いたことでしょう。
この人どこかおかしいと。
なぜなら会話中、延々と聞き手に回っているからです。
私は相手の話をひたすら引き出すことに専念して、自分のことは聞かれるまで話さない。
それは自分の言葉など相手にとって不必要で要らないものだと感じてしまうから。
会話はキャッチボールだということは重々承知しています、それでも私は自分のボールを投げません。
いえ、うまく投げ返すことができないのです。
もちろん全く投げない訳ではないのですが、自分の意見を話しているときはとても気持ちの悪い感覚が付き纏っています。
心のなかで「自分の話を早く切り上げなきゃ」「果たしてこんなこと言っていいのだろうか」「的はずれなことを言っていないだろうか」など。
失敗することを恐れ自分の意見より正解だと思うことを答え、人に嫌われ1人になることを恐れ多数に受けそうな無難な答えをしてしまいます。
そうしていると常に間違ってはいけないと緊張感が伴い続け疲弊し、安心して会話にのぞめなくなりました。
そして相手の言葉を受け止めては、次のボールを早く投げるように催促する。
相手に喋ってもらってる間は自分が失言することがないからだと思います。別れ際決まって相手に謝られます。

「自分の話ばかりしてしまってすみません」と。

いやいや謝らないでください、ボールを投げていないのは私の方なんです、、、とは言えずいつも悶々としてしまいます。
私がしているのは会話ではなくどうやらインタビューもどきらしいのです。相手の言葉を引き出し吸収し続けては頭の中に溜まりに溜まり、産まれてきた自分の感想は日の目を見ることなく、早々に眠りにつきます。
するとすぐに体が疲れてくる感覚に襲われます。
脳内に詰め込めるだけ詰め込むのに吐き出すことができないので、情報で破裂しそうになります。
こんな状態が健全な訳がない、とようやく気付きました。
勇気をだして友人に相談したところ、書くことをおすすめされました。
書くことには様々なメリットがあるらしく、とかく自分の意見が持てるようになると。
そして藁にも縋る思いで筆を取って書き殴っている次第です。
この記事は紛れもない私の中から産まれた言葉で書かれています。
それは普通の人からしたら当たり前のことでしょう。
しかし今まで自分の言葉に蓋をして生きてきた私にとっては、とても新鮮なことでした。
noteを開くと、「ご自由にお書きください」と目に飛び込んできました。
自由に書いていいんだ、となぜか安心できたのを覚えています。
今まで文章など書いた経験がない私にとってはこの記事はとても拙いものでしょう。
しかしそれでいいのだと思います。
それは私が一番良くわかります。
なぜならこうやって書いているだけで体が喜んでいる感覚を感じとれるからです。
これこそ私の体が求めていたことなのでしょう。
これから自分の言葉を取り戻せるでしょうか。いえこのまま何も変わらないかもしれません。
今後も人と話してると自分の意見をださず、聞き役に回り続けるかもしれません。
なにか会話のおかしな人という認識を持たれ続けるかもしれません。しかしそれもまた私なのです。
今回は書くという素晴らしいきっかけを与えてくれた友人に感謝を込めて、終わりにいたします。ありがとうございました。

おまけ

ポトス

1ヶ月前に我が家にやってきたポトスさん。
私はささやかながら植物を育てる趣味を持っています。
そしてこのポトスは観葉植物に没頭するきっかけを与えてくれました。
2号のポット苗として売られていたのに、今では5号を使い回すほどの大物に(私の気が早いだけ)
今日もたくさん新芽が育っています。健気でかわいいですね。


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