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裸の履歴書vol.1~物心ついたときから…

 物心ついたときから、「ものわかり」が良かった。いわゆる「察する」というやつだ。誰になにを言われたわけではなく、両親が離婚していたことを察していた。察しているからそこには触れない。
 たまに会う父に「将来、競輪選手になれ!」とまじないのように説かれ続けても、察した。察しているから反発しない。普通は親に勝手に将来の展望を押し付けられているのだから、反発してもよさそうなものである。しかし、受け入れる。亡くなった兄なんかは、同じようなことを説かれ、教科書通りに反発したらしい(こどもとは?なんて教科書があれば読んでみたい)。こどもながらになぜ察して、反発しなかったのか?と、考えたがよく解らない。ただワクワクしていたことは確かだ。
 小学校に入学して最初の作文で「将来の夢は競輪選手になる。」と書いた。全校朝会で校長先生に「こういう児童がいる。」と告げられた。当然、名前など公表されないが、なんだか誇らしかった。
 小学3年ともなるとテレビ中継で目の当たりにしたプロレスにどっぷりはまるようになる。その頃、一時的に将来の夢が「競輪選手」から「プロレスラー」にすり替わっていた。
 小学4年、運動会で5年生のリレーで走る速さに驚愕(勿論、驚愕なんて言葉は当時は知らない)。とにかく速い=カッコいいに結び付いて、「そうなりたい!」「あれは誰だ?」聞くと陸上部らしい…。来年(部活動は5年生から)陸上部に入部しようと画策。時を同じくしてたまに会う父に、「中野浩一(ご存知ミスター競輪)が陸上やってたから陸上やれ!」と説かれる。このときも察する。反発はしない。つくづく不思議なこどもだ。と俯瞰していた記憶がある。
 5年に進級。晴れて陸上競技部に入部。走るのは楽しかった。なにより気持ちよかった。現在はこのときの感覚に戻りつつある。あるとき、野球部の顧問に声をかけられる。「野球部に入らないか?」いわゆるスカウトというやつだ。当時は世代的に左利きが少数で、左利きの私(ピッチャーとして)が欲しかったようだ。大好きな陸上部の顧問(顧問であり担任)に説得され、しぶしぶ野球部入部。陸上部と野球部のかけもちという漫画のような展開に少しだけ酔っている自分がいた。ものわかりがよくて、察する子で、目立ちたがりでもあるらしい。
 ほどなくして、ピッチャーではなく、ファースト(1塁手)に落ち着く。ことの顛末はこうだ。サウスポーで招聘されたが、いざマウンドに立ち、投げてみると、恐るべきノーコン(※制球難)。野球に明るい方ならお察しの左投げは守れる場所が限られる。故にファーストに納まったしだい。

 ものわかりがよくて、察して、俯瞰的で、目立ちたがりで、

 つまりは、我思う…「可愛げのないこども」だった。


続く

1975年7月17日 青森市で生まれる


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